応永二十二年(1394)、伊勢国司北畠満雅が北朝方に対抗するために築き、弟の顕雅を城主にしたのが始まりである。標高110mの丘を利用して築かれた平山城、東方の坂内川と北方の矢津川を自然の堀とし、南と西は急な崖で守られた要害である。城址へは搦め手方面にあたる西蓮寺方面から登る。二の丸から本丸、西の丸へと続く城址中心部にはそれぞれ神社が建立され、馬場跡、納戸跡が点在、さらに曲輪、土塁、堀切の跡が確認できる。本丸から西の丸とは大きな天然の深い谷で隔てられ、信長軍の攻撃に対して蝮をはなったことから「まむし谷」ともよばれている。
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本丸より大手門方面に歩を進めると、かつては建物があったと思われる曲輪跡、石垣などが残り、かつての規模の大きさがうかがわれる。城址の北方にある福寿山九蓮寺は行基菩薩が開基したと伝え、北畠満雅も寺領を寄進した古刹だ。戦国時代、織田信長の伊勢侵攻に対した北畠具教は、霧山城から大河内城に移して織田軍を迎え撃った。二ヶ月に及ぶ籠城戦のすえ、具教は信長の次男信雄を北畠氏の養子に迎えることで和睦した。
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