戦国山城を歩く

・2007年11月23日→12月08日


城址の案内図

大和国最大級─竜王山城







竜王山城へは長岳寺から崇神天皇陵を経て、竜王古墳群から長岳寺奥の院を辿るコースから登った。最初はのどかなハイキングコースだが、次第に急坂へと変化。奥の院に突いたころには、汗だくのへとへと状態だ。奥の院からさらに坂を登ると、天理ダムから伸びる広い道路に出る。竜王山城は南城と北城に分かれているが、まず、北城に向う。馬池・竪堀・曲輪跡が点在し、石垣の跡も確認できる。本丸の周囲には土塁が残り、意外な広さに驚かされる。本丸と曲輪の間には深い堀きりが穿たれ、虎口と土塁が縄張りの堅固さをうかがわせている。北城をあとに南城に向うと、竜王山の名のもとになったという田竜王社・柳本竜王社が点在し、社殿の前の小さな池はいまも水が湧き出で、高い山上に有りながらも竜王山が水にことかかなかったことが分かる。







南城は北城に比べると小振りだが。石段などが残り、また、本丸からみる大和平野は絶景だ。北城から南城を探索すると、竜王山城が大和国最大の山城といわれることが実感できる。しかし、この山上の城を維持することは相当な負担を強いられたことであろう。また、戦国時代を生きた武士たちの健脚のほどもしのばれ、現代人である我が身のひ弱さを痛感した。下山は長岳寺に通じる急坂を降りたが、「秋の夕べは釣瓶落し」と言われるようにみるみる夕闇が山道を覆っていった。長岳寺から竜王山を振り返ると、折しも月が昇ろうとするところであった。
二回目の探索は、天理ダムより通じる山道をとことこと車で城址へ。前回の心残りを払拭せんと、縄張り図を片手に南城址から北城址までを思う存分歩き回った。村田修三氏の説によれば、十市氏は南城をさきに築き、ついで北城を築いたが、のちの松永氏の時代に大幅に整備されていまに残る城址の規模になったとされる。実際に歩き回ってみて、南城址に比べて、北城址の規模がかなり壮大なことが実感でき、村田氏の説の通りだと思われた。規模といい、見晴らしといい、一級の城址だが、ハイキングコースを外れたところは荒れるに任され、早急にちゃんとした整備が施されることを望むところだ。