園部界隈の城を巡る

・2007年4月15日

園部の南部の埴生を起点に、本梅川沿いに宍戸、黒田の城跡を訪ねた




・埴生の最福寺には、埴生城の城門を移築したという小さいながら歴史を感じさせる門が残り、「面高」「六つ鉄線」の紋が彫られていた。埴生城は野々口氏が拠った城と伝えられ、最福寺の境内の墓地には野々口氏の墓石が多かった。家紋を見ると「三つ引両」がほとんで、城門に彫られた「面高」「六つ鉄線」が見られないのが不思議であった。埴生をあとに本梅川を北上すると、宍戸城があらわれてくる。






・宍戸集落の公民館横の小道を登ると、宍戸城址に至る。登って驚いたのは、堀切、土塁、井戸の跡などが散在し、意外な城跡の広さである。戦国時代末期、山上に城主である小畠氏一族の館が存在していたのであろう。あるいは、園部藩主となった小出氏が園部城ができるまで、宍戸城に滞在したというが、そのときに宍戸城を整備したものであろうか。




・小畠氏は北方の黒田城に割拠する森氏と対立、抗争したという。その結果、両者の間に位置する古刹九品寺が戦火に焼かれた。九品寺は白河天皇の勅願寺として建立されたと伝わり、山門は重要文化財に指定され、境内はもの寂びた風情に包まれている。その一方で、妙に世俗的な雰囲気もあるのが気になった。境内の一角に八十八ケ所巡りができる区画があり、そこをめぐったところ崖崩れで石仏が埋もれていた。一体を掘り出したものの、まだ数体の石仏が埋まっている様子、九品寺の住職の方はなんら手をうたれないのだろうか!




・小畠氏と対立した森氏が拠った黒田城を目指す、黒田集落に入ると古墳時代前期の貴重な古墳という黒田古墳がある。こじんまりとした前方後円墳で、まことにかいらしい佇まいであった。古墳の墳丘から東北方面をのぞむと黒田城址が見える。急な山道を登ると思いがけず、土塁、堀切が散在し、意外にしっかりとした縄張りであることに驚く。長い間、自然のままに放られていたものを地元の方が手入れ、スキー板を利用した道標も立てられている。このような人の苦労と努力が、城址はもとより古い遺跡を守っていることを改めて実感、頭が下がった次第である 。