戦国城跡を歩く

・2007年12月01日


城址の案内版の縄張り図

八上城



八上城は、応仁の乱後、幕府管領で丹波守護の細川政元から丹波・多紀郡を与えられた波多野秀長が、朝路(高城)山の麓に「蕪丸城」を築いたのが始まりで、秀長は出身地である因幡の八上にちなんで八上城と名付けたという。永正五年(1508)、秀長の子秀忠が朝路山に陣地を構え、以後、波多野氏の盛衰はあったが丹波有数の城郭へと整備されていたった。天正三年(1575)、織田信長の部将明智光秀が丹波に侵攻、波多野氏は氷上の黒井氏らと結んで抵抗を示したが、天正七年、波多野氏は光秀の和議に応じて謀殺され、八上城は陥落した。
・盛夏の八上城址・晩秋の八上城址・山麓の春日神社界隈




八上城へは城下町のあった奥谷側からが大手道といわれるが、春日神社近くの主膳屋敷跡から本丸を目指す。整備された道をひたすら登ると、曲輪跡、堀切が散在し、本丸城門跡からは遠く松尾・白髪岳が見える。
・八上城をめざす・右衛門丸跡の石垣跡・三の丸の土壇・二の丸への上り坂




本丸跡は綺麗に刈り込まれ、縄張りがよく分かる。東北の岡田丸から本丸東側の帯曲輪方面には石垣が綺麗に残っている。また、沢田城・八百里城・細工所城などが遠くに望め、八上城が多紀郡の中核にあったことがよ実感できる。
・本丸跡・朝路池・大堀切




本丸を後に東側に続く曲輪をめざす。戦国大名であった波多野氏の居城址だけに広い、茶屋丸から馬駈場を通り、芥丸・西蔵丸跡をめざす。要所、要所に竪堀が切られ、いまは樹木に覆われているが往時は各方面からの敵の動きを察知することができる作りとなっている。
・茶屋丸横の通路・芥丸に祀られた石仏・西蔵丸から本丸を振り返る・篠山市街に残る波多野氏の菩提寺