杏葉紋
もともとは西域で馬具の装飾として生まれ文様に転じた、
豊後の戦国大名大友氏の家紋としてあまりに有名である。
杏葉 花杏葉 三つ盛杏葉 杏葉九曜

 杏葉は「ぎょうよう」と読み「ぎょよう」とも読まれる。一見、茗荷紋と似ていることから植物のを象ったものと思われているが、杏葉は馬具などの装飾品で、西アジア地方から中国に流入した文様の一種であった。唐の時代に流行し、それが日本に伝わったと考えられている。 つまり、杏葉は舶来の文様として珍重され、やがて家紋としても採用されたようだ。鎌倉時代の初期、勧修寺親雅が使用していたとされるが、勧修寺の紋とはならなかった。
 杏葉は馬具の装飾品として、一個ずつ独立したものであったが、図案としては二個を対立させて円形としたものが一般的で「抱き杏葉」と呼ばれる。前記のようにその意匠が茗荷紋と似ていることから、しばしば混同されることが多い。杏葉紋は馬具の装飾から生まれたものだけに、植物を象った茗荷紋にある葉脈を示す筋がなく、花房もないことから相互の違いが分かる。しかし、それぞれ変形されたものを見ると、杏葉、茗荷のいずれとも識別しがたいものもあり、家の歴史などを考察し家紋の由来をたずねることが重要であろう。
 家紋としては「見聞諸家紋』に、大友氏、摂津氏、飯河氏、塀和氏などが「抱き杏葉」を、目賀田氏が「三つ盛杏葉」を、安芸の厳島氏が「杏葉九曜」を用いたことがみえ、かなり広く用いられていたことが知られる。
 杏葉紋は、のちに大友氏の代名詞ともいえるほどに豊後の戦国大名大友氏、大友一族の家紋として知られている。 大友氏は相模国から出て、鎌倉時代に豊後の守護となり中世を通じて栄えた家であった。大友氏の北九州一円における勢力が、杏葉紋を鎮西地方で権威ある紋とし、杏葉紋を与えられた大友一族や有力家臣たちは、同紋衆として優遇されていた。立花氏、戸次氏、田原氏などの一族も杏葉紋を用いていた。
 戦国時代、肥前の龍造寺氏が台頭し、隆信の時代に大きく勢力を拡大し大友氏と対立するようになった。元亀元年(1570)大友宗麟は龍造寺隆信を討つために軍を起こし、肥前に侵入した。圧倒的な大友氏の軍勢に対し劣勢の隆信は夜襲を企て実行、大勢に油断した大友氏の軍を打ち破った。この戦勝を記念して、龍造寺氏はそれまで用いていた家紋を奪い取った杏葉紋に改めたという。このことは、当時、それだけ杏葉紋の声望が高く、戦利品としての価値があったことを示している。龍造寺氏の杏葉紋は、のちに鍋島氏にも伝えられ肥前佐賀藩主鍋島氏の紋として有名になる。
 ところで、杏葉紋は法然上人が開いた浄土宗の寺の紋としても知られる。法然上人は、美作の立石氏の生まれといい、幼いころに父を失い寺に入ったのだという。美作の立石氏は大友氏の一族で、家紋も杏葉であった。それがのちに浄土宗の寺紋となったのである。
 いま、杏葉紋を使用されている家の場合、九州の大友氏との関係があったことが想像される。一度、家の歴史を調べてみられてはいかがだろうか。

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写真:装束に杏葉が描かれた鍋島直茂像/ 京都知恩院の杏葉紋

杏葉紋を使用した戦国武将家
一万田氏 厳島神主家 入田氏 臼杵氏 大友氏 鹿子木氏
朽網氏 志賀氏 摂津氏 田北氏 立石氏 田原氏
鍋島氏 戸次氏 真玉氏 三池氏 目賀田氏 門司氏

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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク 家紋の由来にリンク


戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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家紋イメージ

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