日足紋
日足とは日の光が出ている様を象った文様、
筑後草野氏の代表紋で肥前の龍造寺一門も用いた。
龍造寺十二日足 八つ日足 大村日足 十二日足

日の出  「日足紋」は、太陽の光芒すなわち太陽光線を図案化したものであり、「日の丸紋」に含まれるものである。太陽の形は真ん丸で、印としても書きやすく、識別も簡単である。さらに、太陽は万物の成長の源であり、夜を打ち払う神聖なものでもあった。平安時代末期ごろから、軍陣に「金の日出したる皆紅の扇」が好んで用いられていた。これは、戦国時代に至るまで変わらない。武将たちは、 太陽の持つ神聖な力と、あまねく地上を照らす太陽の偉大さに自らの武運を願ったのであろう。
 日紋を用いた武家としては『見聞諸家紋』には、斎藤・望月氏が日に雲を配した紋を用いたことが記されている。戦国時代になると旗指物に朱で日の丸を描いたものが多く見られ、その鮮明さ、陽気さが武士たちの人気を呼んだ。また、武将の馬印としても用いられ、足利将軍家をはじめ、津軽・伊達・上杉・武田・真田・結城・稲葉・酒井などの諸氏のものが知られる。 また、小西行長が文禄の役に用いた馬印も日の丸であった。
 さて、日足紋は北九州に多く見受けられる。古代、九州は「日(ヒ)の国」と呼ばれ、のちに肥前・肥後に分かれるようになった。「ヒ」とは、いまも活火山として活動する阿蘇山をさしたものにほかならない。そして、九州は陽光にあふれる土地柄でもあった。このようなことが、 日足紋の発生と関係があったことは疑いない。
 日足紋を用いる九州の武家としては、筑後の草野氏、肥前の龍造寺氏・大村氏、肥後の菊地氏らが挙げられる。のちに菊地氏は阿蘇神社の神紋である「鷹の羽紋」に、 龍造寺氏は「剣花菱紋」から「杏葉紋」に、大村氏は「木瓜紋」に改めている。
 龍造寺氏は藤原秀郷流佐藤氏の後裔を称し、文永・元弘の役にも活躍した。戦国時代、隆信の代に一大飛躍を遂げた。隆信は肥前一国を従え、さらに、筑後・肥後・豊前などに兵を進め、大友・島津の両氏と九州を三分する勢いを示し、竜造寺氏の全盛期を現出した。その過程で大友宗麟と戦い、家臣鍋島信昌の活躍によって大友軍の将大友親貞を討ち取る大勝利を得た。そのとき、潰乱した大友氏の陣には残された幕の紋「杏葉」が翻っていた。当時、杏葉紋は九州の武家にとってあこがれの紋であったようで、隆信はいままで用いた紋に変えて杏葉紋を自らの紋とした。 このことは、家紋が武家にとって戦利品となりえたことを示している。
日の出  一説に、龍造寺氏は草野・菊地氏らと同じ一族であるともいわれ、日足紋は「日の国」で生まれた武家が、自らの出自を誇示する家紋として用いたものであろう。  江戸時代、佐賀藩主であった鍋島氏もこの紋を用いた。これは、本来の主家である龍造寺氏から受け継いだものである。このように、日足紋は北九州にゆかりの深い家紋としていまに伝わっている。いいかえれば、いまこの紋を用いられている家は、 北九州にゆかりがあるものと考えて間違いないものと思われる。
 ところで、日本の国旗は「日の丸」であり、白地に赤い丸というシンプルなものである。 日の丸が国旗として定められたのは明治三年一月のことであった。そもそも、日の丸が日本の旗となったのは、 安政五年(1854)のことで外国船の旗に刺激された幕府が、当時の薩摩藩主島津斉彬の意見を採用して 日本国総船印としたことにある。そういう意味では、海の馬印であったともいえよう。余談ながら、 ときの老中阿部正弘の家紋「石餅」が「日の丸」と同じ丸印であったことから、 一部では老中の紋が国を代表する印になったと騒ぐ者もいたという。
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写真:山崎町川戸の日の出 ・龍造寺氏ゆかりの佐賀八幡神社の神紋

日足紋を使用した戦国武将家
上妻氏 大村氏 於保氏 草野氏 草野氏(肥前) 肥前高木氏
竜造寺氏

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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
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