銀杏紋
秋の黄葉の見事さは格別、材質もよく実は食用、
火にも強いことなどから家紋となったようだ。
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銀杏はイチョウと訓み、裸子植物のイチョウ科の落葉樹である。公孫樹とも書かれるのは、「公が種を播いても、孫の代にならないと実を食べることができない」という中国からの伝えから生まれたものという。また、中国では葉の形が鴨の足に似ていることから鴨脚樹とも書かれた。いずれにしろ中国原産の帰化植物で、日本に伝来したのは平安時代の中ごろのことといわれている。
銀杏の木は長寿で材質も均一で碁盤や将棋盤に加工され、銀杏の実は食用として珍重される。ふるくから神社の境内に植えられ、神木として崇められてきた。さらに、火事などで焼けたのち、もっとも芽吹きの早いのは銀杏であるともいわれる。このように、まことに有用な銀杏をシンボル化したのが「銀杏紋」である。
公家では、藤原北家花山院流の飛鳥井家のみが用いている。飛鳥井家は代々和歌・蹴鞠をよくし、『新古今集』の撰者のひとり雅経を出している。飛鳥井家では、当主は十六葉の銀杏、嗣子が十二葉の銀杏を用い、一門は八葉の銀杏、さらに家臣に賜与したものは三つ葉の銀杏と使い分けていた。これは、デザインの変化によって使用者の身分を区別する紋章使用法の好例となっている。
武家では『見聞諸家紋』に、西郡氏の家紋が記されている。足利時代にはすでに武家の間で用いられていたことが知れる。『羽継原合戦記』には「大石の源左衛門は銀杏の木」とあり、上杉謙信が残した『関東幕注文』には、大石石見守の紋として「一てうのは二葉」とあり意匠は「銀杏の二葉」であったことが分かる。大石氏は木曽義仲の後裔を称し、関東管領上杉氏に仕え守護代もつとめ勢力があったが、後北条氏に呑み込まれてしまった。
一方、江戸幕府を開いた徳川家康は「三つ葉葵」を用いたが、そのいわれは先祖の松平三代信光が「加茂朝臣」を名乗っていることから、加茂神社との関係に基づいたもののようである。しかし、信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。徳川家は清和源氏新田氏の流れとする系図をもっているが、その家紋を見る限り新田氏との関係は見出せない。信光の加茂とは別に、藤原姓を名乗っていたこともある。家康は系図こそ上手にこしらえたようだが、先祖伝来の家紋を変えることまでは憚ったのであろうか。
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写真:丹波篠山、追手神社境内の大銀杏
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大石氏
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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