石餅(黒餅・石持)紋
単純な白丸、黒丸に見えるが
家紋に込められた意義には深いものがある。
白餅 黒餅(石持) 重ね餅 菱餅

 餅紋は円形を白地、あるいは紺地に書き出したもので、紋章としては最も原始的な意匠であろう。そもそもは単純な円形に過ぎなかったが、お祝いなどに用いる餅を丸くする民俗から、餅に付会されたものと思われる。餅は朝廷の式典にも用いられ、保存性の良さから軍陣の食糧としても重宝された。一方で「もち」は「持」「保」に通ずるところからめでたいものとされ、古い祝辞にも「餅の持(モチ)て栄(サカエ)に」という言葉が見えている。このような、モチの持つめでたい意味合いから家紋としても用いられるようになったのであろう。
 円周内の白いものを「白餅」、黒く塗りつぶしたものを「黒餅」といった。戦場などで遠くから見たとき、「黒餅」の方が目立つことから黒餅が多く用いられるようになった。また、戦場で家紋を描くとき簡単に描けるのも黒丸=黒餅であった。さらに「黒餅」は「石持(コクモチ)」に通ずることから、武士の一所懸命の所領・石高を保有することに通じるとして喜ばれた。やがて、白餅と黒餅ともに石持とよばれるようになった。「塩尻」には矢口祭の際に、黒赤白の三種類の餅を調え、衣幕に黒餅を用いたことから、やがて黒餅が家の紋として用いられるようになったとある。黒餅が瑞祥的な意味合いに加えて、尚武的な意味合いも持っていたことが知られる。 餅紋がいつごろから用いられるようになったのかは明確ではないが、石持という呼び名は天正のころ(1570年代)からといわれている。武士の所領の単位が、「貫」から「石」に代わっていったころであり、「石持(コクモチ)」の呼称が起こる要因となったものであろう。
 餅紋を用いた武家としては黒田氏が有名で、『関ヶ原合戦屏風』に描かれている黒田長政の陣地には、黒地に白抜きと赤地に白抜きの餅紋の旗が見える。黒田氏の餅紋は、官兵衛孝高が竹中半兵衛重治から貰ったものという。「寛政重修諸家譜」には「半兵衛重治が二十三夜の鏡餅を懐にして出陣したとき、胸に当たった矢が餅に刺さって事なきをえた。以後、黒餅を家紋とした。のちに故あって官兵衛孝高に与えた」とある。一方、半兵衛のもとに匿われていた官兵衛の長男長政が、鎧初めのとき半兵衛は乱星のついた陣羽織を祝いに送った。長政は乱星とはいわず、白餅と呼んで家の紋にしたという話もある。そうではなくて、黒田氏の石餅紋は先祖の佐々木黒田判官のころより用いたものといわれている。いずれが正しいのかにわかに結論は出せないが、家紋の丸は星・曜に通じるものであり、黒田氏は星辰信仰と黒田の「黒」に懸けて「黒餅」を家の紋にしたのかも知れない。黒田氏以外に餅紋を用いた武家としては、 浅野・竹中・五十嵐・市橋・筑紫などの諸氏が知られる。
石持地抜酢漿草 石持地抜割菱  また、餅紋のなかには、三月の節句の供え物として使われる菱形をした菱餅があるが、これもお祝いに使われるめでたさから家紋となったものであろう。餅紋の意匠としては、餅を二つ重ねた重ね餅などもあるが、丸だけでは単純すぎるためか 「石持地抜酢漿草」「石持地抜釘抜き」といった他の紋を黒餅に組み合わせたものも多い。

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家紋:石持地抜割菱・石持地抜酢漿草




どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク 家紋の由来にリンク


戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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家紋イメージ

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