馬 紋
馬は「弓馬の術」として武士の重要な表芸であった、
平将門の子孫を称する相馬一族の代表紋である。
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馬は旧石器時代に属するラスコー洞窟の壁画にもみられが、家畜化されたのは紀元前4000年から3000年ごろと考えられている。日本でも相当古くから生活のなかに入っていたようで、「日本書紀」にはスサノオが馬の皮をはいでアマテラスの機織小屋に投げ込んだ、「古事記」ではスサノオの息子であるオオクニヌシが出雲国からでかけるときに馬に乗っていったなどの記述がある。一方、「魏志倭人伝」では倭国には馬はいないとあること、考古学的には古墳時代から馬の存在が確認できることから、日本では弥生時代の後期に朝鮮半島から運ばれてきたものとみられている。
馬は軍事において重要な要素となり、大和朝廷は馬の確保に力を入れ、各地に牧が設けられた。天智天皇の皇子大友と大海人皇子とが戦った壬申の乱では、騎馬隊が戦いに登場している。このようにして馬は軍事に不可欠なものとなり、左馬寮・右馬寮が設置されて大規模な馬産が行われた。平安時代には「くらべ馬」と呼ばれる競馬が盛んとなって乗馬技術も向上していった。やがて、武士が誕生すると大鎧を着て馬上で弓を操る武芸が「弓馬の術」として重んじられるようになった。
かくして騎馬弓射に長けた武士が軍事の中心となり、馬は武士にとって欠くべからざる存在となったのである。また、神の乗馬として祭事などに奉納され、いつしか絵馬の奉納へと変化していった。このようなことから、馬は家の紋として用いられるようになったようだ。
馬紋は天慶の乱を起こした平将門が始めといわれる。伝説によれば、関東で旗揚げし謀反を起こした将門は武勇絶倫の武士で、天も将門の行動を嘉し給うて、黒馬を下し、将門をはげました。しかし、この馬は天与のもので普通の馬ではないため、将門以外は乗ることができなかった。それで繋いでおくことにしたことから、「繋ぎ馬」の紋が生まれたのだという。とはいえ、将門の時代には家紋はなく、その武勇にあやかったものであることは疑いない。
馬紋を用いる家としては、将門の子孫を称する相馬氏とその一門である三田・神田・戸張・黒沢の諸氏が知られる。相馬氏は下総の相馬から起こり、鎌倉時代のはじめ陸奥の相馬郡に移り、馬の名産地である中村地方割拠した。「繋ぎ馬」を家紋としたのは、その苗字と領地が馬の名産地というところからきたものと思われ、将門後裔説はそのままには受け止められない。そして、その図案は絵馬からでたもののようだ。
家紋の図柄としては室町時代に成立した「見聞諸家紋」に収録された贄川・平野氏の「放れ馬」が古いものとされる。馬紋を用いる家の名字はいろいろだが、将門の子孫に関係があるか、将門信仰をもっている家であるようだ。「寛政重修諸家譜」には安部氏流の岸氏、未勘源氏の堀本氏が用いている。
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写真:葵祭で行われる、くらべ馬神事
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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