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浅野氏
丸に違い鷹の羽
(清和源氏土岐氏流)


 浅野氏は、清和源氏頼光流で土岐氏の支流といわれている。その発祥については、『寛政重修諸家譜』では尾張国丹羽郡浅野村とするが、別に、美濃国土岐郡浅野村という説もあり、美濃氏の支流という点からすると、美濃国の可能性が高いように思われる。
 たとえば『尊卑分脈』では、土岐光信の曽孫の光時という人物に註して「浅野二郎」としているのである。この光時が浅野氏の初代に考えられている。しかし、頼隆から長勝のあいだがどのようにつながるのかは不明である。また、浅野長政が若狭小浜城主時代の棟札には「浅野弾正少弼浅野長吉」とあり、天正二十年(1592)当時の長政が、「藤原」を称していたことが知られる。
 浅野長勝は織田信長に仕え弓衆となっており、男子がなかったため、安井弥兵衛重継の子を養子に迎え、これに自分の娘を嫁がせている。その養子がすなわち長政である。もっとも。最初から長政を名乗っていたわけではなく、はじめの名乗りは長吉であった。
 また、長勝は杉原家利女を後妻とし、その妹の娘に禰がいた。禰は、杉原一族の定利を父とするが、長勝の養女となっていた。宿禰は秀吉の室に納まり、長政は秀吉と相婿の仲であった。  長政は養父のあとを継いで、信長の弓衆であったが、やがて信長の命により秀吉に仕え、天正元年(1573)、秀吉から百二十石を与えられ、次第に加増され、同十年には近江坂本城主、同十五年には若狭小浜城主、文禄二年(1593)には甲斐府中城主二十二万石にまでなっている。
 秀吉晩年には、五奉行のひとりとして活躍しており、関ヶ原の合戦には東軍に属している。
 長政の長男が幸長で、関ヶ原のときは東軍に属し、戦後その恩賞として紀伊一国三十七万六千五百石を与えられ、和歌山城主となった。子孫は、福島正則が改易されたあとを受けて広島四十二万六千石を領して広島城主となる。
 元禄忠臣蔵事件で有名な赤穂浅野家は一族になる。




■参考略系図