戸次氏
抱き杏葉
(秀郷流大友氏支族)


 大友庶家の名族。大友氏二代親秀の二男重秀が祖で、大分郡の戸次荘が名字の地となる。
 平安末期以来、戸次荘には豊後大神系の戸次氏がいたらしい。惟澄の代に子がなく大友能直にその所領を譲った。ところが別説では重秀に譲ったとされる。いずれが正しいか分からないが、大神系戸次氏から大友氏に移り、重秀から戸次氏を称したことは間違いないようだ。

 大神惟基−臼杵惟盛−惟衝−惟家┬戸次惟澄=能直/重秀
                └惟康

 重秀が戸次荘に入った時期は明かではない。文永の蒙古襲来には、戸次氏も参戦しているので、頼泰と同じころ下向し、出陣したものであろう。蒙古合戦には戸次氏一族はおおいに武功をたて、戦後処理にもおおいに働いた。
 正安元年(1293)、幕府は鎮西御家人の訴訟沙汰などを処理させるため、鎮西評定衆、引付衆をおいた。この役には、鎮西御家人の名望家をあてたが、これに戸次重頼と戸次貞直が任命されている。貞直は烏帽子親になった北条貞時から偏諱をあたえられて名にしている。このように戸次氏は幕府に重んじられた。しかし、南北朝動乱には、本家大友氏に従って働いた。はじめ官軍として、後に尊氏方として各地を転戦した。
 建武三年の多々良浜の合戦では、味方の死傷百余人、敵の首級五十余を挙げたという。同年玖珠城の戦いには、頼時が活躍し、霊山寺の戦にはその伯父朝直(大神)が共に北軍として戦っている。
 正平三年(1348)、大友氏宗が本家に背いて南朝についた時、戸次頼時・大神朝直はこれに従った。結果において失敗であった。こうして戸次氏は急に衰えることになった。しかし、直光の代に北朝に降参し、領地を回復した。
 親宣の時〜二流に分かれたが、戸次親家の子に鑑連が出て、大友氏の大黒柱として縦横に活躍し、戸次氏は黄金時代を迎える。鑑連は大友宗麟を助けて、吉弘鑑理・臼杵鑑速と並んで三老と称せられた。天正十二・三年、龍造寺政家・秋月種実が島津氏と連携し、宗麟の領国肥後を攻略した際、筑後高良山に出陣して奮戦した。
 鑑連は立花家を継ぎ、立花道雪となり、宝満城主高橋鎮種の子統虎を養子とした。統虎はのちに宗茂を名乗り柳川藩主となった。
 道雪の弟鑑方の子鎮連は島津に内応したが、嫡子統常は、これをはじ、その汚名をそそがんと天正十四年の中津留川の戦いで大友氏のために力戦して討死した。他の戸次氏も主家大友氏没落と運命をともにして没落した。

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■参考略系図