大掾氏
七 曜/右三つ巴*
(桓武平氏繁盛流)
*石川 純一さんからの情報。


 平良望(国香)が常陸の大掾となって土着し、天慶の乱後、勢を得た子の貞盛が甥の維幹を養子として、これに常陸の全領を与えた。維幹は常陸大掾に任じられ、はじめ筑波郡水守に住み、のちに多気に移った。この後、大掾の職はこの家の世襲のようになり、職名は転じて家名となり、維幹の直系子孫は常陸平氏の本家となった。
 大掾氏の一族は、この地方の郡や荘の名をもつ吉田・豊田・行方・鹿島・真壁・東条・下妻・小栗の八支族と、これら内部の農業経営単位の中世郷村名を称する多くの分家となった。鎌倉初期に嫡流の多気義幹は讒言にあって失脚、庶流の吉田助幹が本宗を継ぎ、馬場大掾氏と称して、その子孫が水戸城を拠点として発展していく。
 南北朝内乱期になると、大掾氏は足利方に属し、大掾高幹は高師冬らとともに北畠親房ら南朝軍が在城した小田城を攻め、城主小田治久を降伏させている。
 その後、応永二十三年に起こった上杉禅秀の乱に関係した大掾満幹は、水戸地方を没収され、その地は江戸氏に給与された。江戸通景は大掾氏が城明け渡しに応じなかったので、在庁職遂行のため府中に出向いていた満幹の留守に、水戸城を占拠した。こうして水戸地方を失った大掾氏は、府中城一帯を保持するだけの小勢力となった。
 貞国の代になって佐竹氏に帰属し、その子清幹に至って江戸氏の府中侵略をゆるし、豊臣秀吉の小田原征伐では佐竹義宣の命に従わず、天正十八年佐竹氏によって府中城を攻撃され、清幹は自害した。ここに中世以来の名門の旧族大掾氏は滅亡した。さらにその翌年、常陸南部の一族三十三館の主も、本拠太田城を佐竹氏に攻められ、城中酒宴の席でことごとく殺害されて、大掾氏一族は全く滅亡してしまった。

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■参考略系図