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遠藤氏
亀甲に唐花
(桓武平氏千葉氏流)


 遠藤氏は、東氏を祖とする。東氏は、千葉常胤の六男胤頼が下総国東荘三十三郷ほかを与えられ、東をもって称したのに始まる。胤頼は、伊豆国に配流中の源頼朝が「累代の御家人」等を招くときいて参向、のち麾下に属し、しばしな軍功を顕わしている。
 三代胤行は、藤原定家の子為家の婿で、為家について和歌を学び奥義を受けている。また、「承久の乱」における軍功として美濃国郡上郡山田庄の新補地頭に任ぜられ、劍郷に住し、阿千葉城を築いている。氏村は、後醍醐天皇の寵遇を蒙り、武家所六十四人に名を連ね、天皇の身辺警固に任じていたのであるが、南北朝の騒乱に際しては、美濃国土岐氏に従って武家方の足利尊氏に属した。そして新たに篠脇城を築き、越前の南朝方に備えた。
 東氏は歴代いづれもが文武両道に秀でていたが、中でも常縁の存在は特筆される。常縁は野田氏を称し、足利八代将軍義政に仕え、命にとり本領東荘に下向する。宗家千葉実胤が、同族千葉常喜のために敗軍して、ほとんど滅亡におよぼうとしていたからであった。常縁の関東滞陣十余年、京都では「応仁の乱」が起こり、美濃国では、篠脇城が守護代斎藤妙椿の手に落ち、山田荘が横領された。
 篠脇落城の報に接したとき、常縁は亡父益之の追福を営んでいた。
 あるが内に欺かるる世をしも見ざりけん 
   人の昔の猶も恋しき

と詠じたもであったが、妙椿は予て歌の友、遥かに常縁の一首を伝え聞いて大いに感じたのであった。「常縁、我に和歌を送らば返しせん志あり」所領を返そうというのだ。常縁は十首を詠じてこれに応えた。妙椿は、深く感じ、先の志を現わしたのだった。
 その後、常慶の代に至り子常堯は「年来不道の行」を疏み、常慶は常堯を廃し一族で婿の遠藤盛数をもって東の家督と することを議した。常堯は兵をもって家督を継ごうとしたが、盛数が常慶の命を受けて一戦、常堯を敗走させた。 ここに盛数が東の家督となったが、遠藤を称して、子孫相継いで遠藤を家号とした。

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■参考略系図