能登畠山氏
二つ引両/村濃 (清和源氏足利氏流)
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室町時代初頭、畠山国清が足利尊氏に従って戦功をあげ、鎌倉公方足利基氏の執事なり専権を振るった。その弟義深は、能登・越中・河内・和泉などの守護になり、その子基国は三代将軍義満に重用され、明徳の乱・応永の乱に戦功を挙げ、幕府の管領となった。基国の子満家が宗家を継ぎ、その弟満則が能登守護となり、以後この系統を能登畠山氏と呼ぶ。
満則は七尾城を築き、そこを代々の居城とした。しかし、その後の歴史については諸説あって一定していない。その系図をみても、
┌義有
満則−義忠┴政国−義統┬義信
└家俊
とするもの。あるいは、
満則−義忠┬義有−義統−義元
└政国
とするもの、といった具合である。
義統についてみれば、義総と同一人であるといわれ、義継・義続と出てくるものも義統のことだといわれ、系図上にはかなりの混乱がみられる。
義統は、亨禄年間(1528-32)当時禅僧の間でも師儒といわれて尊敬を集めていた清生宣賢を京都より招き『孟子趙注』や『中庸章句』などの講義を受け、文化人大名として知られている。しかしその嫡男義則は大の漁色家であったといわれ、それがもとで家臣の排斥を受けて越後に亡命している。
しかし、義統の嫡男義則は大の漁色家であったといわれ、それがもとで家臣の排斥を受けて越後に亡命した。
その跡を義則の子義隆が継ぎ、さらに義春が継いだ。義春を義則の弟とする説、義則の子で義隆の弟とする説などがある。この義春は上杉謙信によって上条の上杉家を継ぎ、上杉義春となったが、のちに畠山に復している。秀吉に仕えて馬廻となり河内国高安郡に五百石を与えられ、関ヶ原の合戦後は家康に仕え、結局。高家として三千石を領して江戸時代に続いた。
■参考略系図
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