原田氏
三つ引両/軍配団扇
(大蔵氏嫡流)
・九つ日足とする説もある。


 原田氏は九州の大族大蔵氏の嫡流である。
 大蔵氏は大和朝廷の官物を納めた蔵である大蔵に仕えた漢氏の子孫といわれる。大蔵氏が九州にかかわりをもつようになったのは、天慶四年(941)伊予の藤原純友が反乱をおこしたいわゆる天慶の乱で、源経基.小野好古らとともに鎮定に功のあった大蔵春実の九州入りからである。
 春実は戦功により征西将軍に任じられ、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の三前二島の管領職となって太宰府に近い筑前御笠郡基山に城を構え、太宰府の武官として北部九州の守備にあたった。のちに山麓の原田に居館をつくり、原田氏を名野津用になったという。
 大蔵春実九州入り後、原田を嫡流として秋月・江上・田尻・三原・高橋などの諸家を生じた。大蔵氏三大豪族として原田・秋月・高橋があげられる。
 源平のころ、原田種直が大宰少弐となり、平重盛の女婿として平家のためにおおいに気を吐いた。しかし、平家没落とともに没落した。
 降って戦国時代の永正五年(1508)、中国大内氏に属していた高祖城主原田興種は、父弘種や一門の菩題を弔うために、高祖山麓に太祖山金龍寺を創建した。興種の興は大内義興の偏諱をうけたもので、かれは大内義興が将軍義稙を奉じて京に上ったとき、これに従い足利義澄を近江に敗走させるのに功があった。
 興種の子隆種は、大蔵一門の惣領として高祖城を本拠に筑前西部に勢力を築き、大内氏と結んでしばしば大友氏と戦い、これを撃破している。大蔵氏の黄金時代として春実を第一期とすれば、第二期は原田種直時代であり、第三期が隆種の時代であった。
 しかし、大内氏が陶氏の謀叛で滅び、同族秋月氏が大友氏の攻撃によって没落、原田氏も大友勢に攻められ原田越前守はやむなく降伏したが、長男の種門、三男の繁種兄弟は父に反して大友勢に徹底好戦したが、衆寡敵せず、中国に逃れんとして、志摩郡岐志浦で大友氏の手で討ちとられた。
 隆種のあとは四男の親種が継ぎ、惣領となり大友氏を仇敵として徹底好戦した。しかし、天正二年大友宗麟の将立花道雪により詰腹を切らされ、原田氏の嫡流は滅亡した。

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■参考略系図