本願寺大谷氏
下り藤(西)/牡丹(東)
(藤原北家日野氏流)
・東と西に分かれたのは江戸時代初頭のこと


 下級貴族日野有範の子として承応三年に生まれた親鸞は九歳で出家し、比叡山で修行する。二十九歳で京都六角堂に参籠、啓示を受け、法然のもとに通う。法然の専修念仏が旧仏教の反感をかい、親鸞は越後に流された。当地で浄土教の研学・恵信尼との結婚により信仰を深め、赦されてからは、関東で布教に従事し、農民・武士の間に信仰を広めた。
 親鸞八世の孫が蓮如で、衰微していた真宗教団の再興につとめた。蓮如は、御文と呼ばれる平易な和文で書かれた伝道文を下付して、民衆の教化に成功。ために比叡山と対立し、大谷本願寺は破壊されたが、文明三年越前に吉崎坊を開くや門徒が多数集まり、門前町が形成された。ところが守護富樫政親に攻められたため、京都山科に本願寺を再興、教団の拠点とした。
 蓮如滅後、本願寺は実如、証如、顕如と次第伝持され、顕如の子教如・准如以降、東西本願寺に分派した。その間本願寺は、諸国の一向一揆によって戦国の世に君臨する一大勢力に発展した。
 顕如の時代、本願寺の社会的地位は一段と高まり、顕如は僧正に任じられ、さらに門跡号をも与えられた。ともに本願寺でははじめての栄誉であった。このような本願寺の隆盛とともに、顕如の時代は、一揆合戦に終始した血生臭さい時代でもあった。
 まず顕如就職の翌天文二十四年、越前朝倉義景と加賀一揆の間に戦端が開かれた。顕如はわずか十四歳で細川晴元の娘と結婚、これはきわめて露骨な政略結婚であって、爾来、顕如は否応なく、戦国乱世の火中に巻き込まれることとなった。
 永禄六年、三河一向一揆と家康の戦いが起こり、元亀元年には、伊勢の長島一揆が起こった。同三年越中の一向一揆は、 上杉謙信に敗られ、天正二年長島一揆が悲惨な敗北を喫している。天正に入り、信長は果敢な戦略活動を展開し、 一向一揆を最大の敵と目した。以来、天正八年の石山開城まで、本願寺と信長の執拗な戦いが続いた。

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■参考略系図