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井伊氏
橘 /細平井桁
(藤原氏冬嗣流)


 井伊氏は藤原冬嗣六代共資に起こり、遠江国引佐郡井伊谷に住んで井伊氏を称したという。実は古くからの在庁国司だったものが、藤原氏に家系をよせたものと思われる。共資に男子がなく、女子ばかりであった。そこで、井伊八幡社に神童がいると聞きつけ、迎えたのが共保であった。
 井伊家は井伊谷に一城を構えて、早くから頭角をあらわしていたことは『見聞諸家紋』にも取り上げられて「井」の紋が掲載されていることでもわかる。
 南北朝のころ、庶流の上野井伊氏の直秀が新田義貞に従って功を挙げている。
 戦国時代、駿河から遠江にかけては今川氏の勢力圏であった。井伊氏も代々今川氏に仕えていたが直親の時、謀叛の嫌疑をかけられ今川氏直に殺され、領地を没収されたた。その子直政は僅か二歳であったが、命拾いして、十五歳のとき徳川家康に仕えた。
 直政は「井伊の赤備え」で戦場に威力を示した。この赤備えは直政を中心に甲斐武田氏の遺臣らを添えて、作り上げられたものであった。赤備えは、小牧・長久手の戦で秀吉軍をひるませ、直政に「赤鬼」の異名を残した。
 天正十八年、家康の関東入国にともなって、上野箕輪十二万石の領主となり、高崎に新城を築いて入った。そして、関ヶ原合戦後、石田三成のいた近江佐和山十八万石に加封された。その後上野佐野・武蔵世田谷などを増封され、併せて三十万石の大名となった。直政は佐和山において没した。関ヶ原で受けた鉄砲傷がもとだったという。なお、兄の直勝は、旧縁の高崎に近い安中において三万石を領し、井伊家は宗支入れ替えの格好となった。
 幕末に直弼が出、大老となり安政の大獄を起こし、桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

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■参考略系図