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生駒氏
波切り車
(藤原氏北家流後裔)


 生駒氏は、大和国平群郡生駒の出身で、本姓藤原氏といわれている。すなわち、藤原房前の後裔良房のときに至り大和国生駒邑に住み、以来、家広が尾張国へ移り住む際に、その邑の名を称して生駒姓を名乗るようになったという。
 家広の娘は土田秀久へ嫁ぎ、政久をもうけた。家広の男・豊政には蔵人家宗というのがあったが、政久を養子に迎えて親重と名乗らせて生駒家を継がせている。親重の娘は織田信秀に嫁ぎ、織田信長を生んでいる。こうして生駒家は織田家と、互いに争うことなく同盟を確立する。
 しかし、天文十八年織田信秀が没し、信長が家督を継ぎ、織田家はその勢力を拡大してゆく。そして、生駒因幡守家宗の娘が信長の後妻正室として嫁ぐことで両家の関係は強力になるが、永禄九年ごろになると、織田家は手持ちの軍勢では足りず。生駒家へも従属をせまってきた。
 そのころ、生駒家は親重の子親正となっていた。家譜には、「永禄九年織田右府、親正の名を聞き、豊太閣を遣わして致招せしむ。親正太閣とともに往きて、右府に謁す。右府大に喜び、領地若干を賜ふ。是より始めて織田氏に属す」とある。
 親正が秀吉との関係を深くするのは、元亀元年(1570)の越前金ケ崎城における殿軍戦のときからである。このとき、信長は麾下のうち五人の勇士をとくに選んで秀吉に付属させているが、その五人に親正も含められていたからである。
 その後は秀吉に従って各地に戦い、天正十三年には近江国高島郡において二万三千五百石を与えられている。のち、さらに転封.加増され、石高は六万石、讃岐国丸亀城主にまでなっている。また、堀尾吉晴・中村一氏とともに「三中老」のひとりに数えられた。
 関ヶ原の合戦のとき、親正は西軍に属していたが、子の一正が東軍に属していたことで家は安泰であった。一正は讃岐十七万三千余石の大名となり、慶長八年高松城において没した。その後、孫高俊の代に「生駒騒動」と呼ばれる事件があり、讃岐国は取り上げられ出羽国由利郡へ配流となった。




■参考略系図