吉川氏
三つ引両
(藤原氏南家流)

 吉川氏は本姓藤原氏で、武智麻呂の後裔と称している。すなわち武智麻呂十五代の孫に経義が出、これが駿河国有度郡の吉香郷に居住し、吉香氏を称するようになったと伝わる。駿河に伝承の多い藤原為憲流、すなわち維清の裔である。
 はじめ吉川氏は吉香と書かれることが多く、また木河とか金河と書く場合もあり、すべて同じであるが、南北朝時代あたりから吉川に統一されるようになった。
 吉川氏が史上有名になったのは、梶原景時一族が謀反を起し京都に向かった時、それを駿河の狐ケ崎に討ったことである。吉香小次郎をはじめ船越三郎・矢部小次郎・庵原小次郎などの一族が、三十三人の首を取った。その功で播磨国福井庄の地頭職が与えられた。
 さらに承久の乱に当たり、吉香経景・義景兄弟は、宇治川を渡って敵とわたりあい、その功によって、経景に安芸国佐東郡の、義景には安芸国山県郡戸谷の地頭職が与えられた。
 経高の代になって、寒曳山南方の丘に城を築いて、駿河から移り、代々大朝庄を本拠として安芸の有力国人として成長を遂げていくことになった。経高の弟のうち、経盛が福井庄を領して播磨吉川氏の祖となり、経茂が石見国邇摩郡津淵郷の地頭職を得て石見吉川氏の祖となり、末弟の経時が駿河に残ったという。
 大朝庄は安芸国とはいっても石見に近く、戦国時代には尼子との関係が深かった。したがって元経が毛利元就の妹と結婚してのちも、大内んに服属した毛利氏とは敵対関係にあったのである。しかし、尼子氏の郡山城毛利攻めが失敗した時点から吉川氏は大内方となり、次第に毛利氏との連携を進めていった。
 とはいえ、元経の子興経は、大内氏の月山城攻撃中に再び尼子方に転じた。毛利氏にとって吉川氏の向背はきわめて重要であり、毛利元就は、ついに興経に不満を持つ吉川経世などに働きかけ、興経を隠退させ、代わりに自分の子の元春を養子として送り込むことに成功した。一見平和裏にことが運ばれたが、元春が吉川の家を継いで三年後の天文十九年、元就は興経を殺している。
 このようにして、安芸・石見国境地帯に勢力を持つ吉川氏は毛利一族となり、以後、小早川氏とならんで毛利両川と呼ばれるようになったのである。
 のち九州征伐従軍中、元春・元長父子は急逝し、元長の弟広家が、隠岐・出雲・伯耆・安芸で十一万石を領したのである。関ヶ原の戦いには家康に誼みを通じ、戦後、岩国に移り、明治まで続いた。




■参考略系図
 



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