久留島氏
折敷に縮み三文字
(清和源氏村上氏族)


 伊予の来島を本拠とし、もと来島と称したが系譜については諸説がある。源氏の流れをくむといい、河野氏の一族説、村上氏の一族説などがあるが、村上説が有力である。すなわち、応永二十六年(1419)村上氏yは能島・因島・来島の三家に分かれたが、村上義顕の三男吉房(義顕の弟で二郎吉房とする説もある)が独立して来島氏を称したことに始まるという。村上氏の祖は越後(信濃?)の村上源氏で伊予に流入してきたと伝えられる。
 戦国時代に活躍するのは通康と通総の父子で、通康は河野通直の女を妻とした。天文十二年に通直は通康を後継者に指名、反対した家臣は来島を攻めた。この騒ぎはは家督を分家の河野通政に譲ることで解決した。弘治元年の厳島の合戦では、能島・因島村上氏とともに、毛利氏の招きに応じ、勝利の一因をなした。  子・通総は河野氏と対立、天正十年(1582)織田方に走り、毛利・河野軍の討伐を受けた。能島・因島の水軍に襲われた通総は秀吉のもとに赴いた。秀吉の四国征伐には先鋒をつとめ、その戦功により風早郡一万四千石を与えられた。
 朝鮮の役にも従軍し、兄通之が戦死、ついで通総も三十六歳で戦死した。その子康親は剛胆で、長宗我部元親に 河野をはじめとした国人たちが降伏したときも従わず、のち徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦後、豊後の久珠郡森に 所替えとなり、久留島と名を改めて、明治に至っている。

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■参考略系図