忽那氏
杏葉牡丹/六つ鉄線* (藤原北家道長流)
*忽那水軍の旗印という。
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瀬戸内海西部の一要衝である伊予国忽那七島に拠り、中世期海上に活躍した在地勢力。その出自については諸説あり、十一世紀に藤原道長の後裔親賢がこの地に配流されたのに始まるという。その曽孫と称する俊平は鎌倉幕府の御家人となり、忽那島地頭職に補せられ、城郭・要塞を各地域に設けた。
その曽孫重俊の代に忽那家の諸職・所領は兄弟に分割相続された。これらをめぐって同族間に紛争が続いたが、同島の長講堂の預所と対抗するほどの実権を養っていた。
久重は蒙古襲来に際して活躍している。その子重義は忽那一族を糾合して近海の制海権を掌握し、在地勢力を確立した。元弘の乱には河野氏従属の態度を改めて、伊予本土の土居・得能氏と連合し、その子の重清・義範らを派遣して、喜多郡根来城および久米郡星ノ岡を攻略し、来侵してきた幕府側の長門探題北条時直の軍を壊滅させた。重義はその功労によって左少弁任じられたという。
重清は、建武の中興ののち得能氏らに協力し、周布・越智郡における北条氏の残党の反乱を鎮定した。足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、重清は中興政府の指示により東進して信濃国に武家方を激破し、引き続き京都で尊氏の与党と戦闘を交えた。しかし、尊氏が九州で退勢を回復し、東上を企てるに及んで、重清は従来の態度をかえ、尊氏に呼応した。
重清の弟義範は、兄が武家方に転じ忽那氏の勢力が二分されたのちも、忽那島神浦を本拠とし、宮方として積極的活動を続けた。同島に来襲した吉良貞義の軍を撃退したのをはじめとして、讃岐国の細川氏および河野氏の連合軍を和気郡和気浜に、河野氏の与党を温泉郡桑原・久米郡井門の両城に攻略し、進んで新居郡西条方面を占領した。
その後延元四年、征西将軍として懐良親王が五条頼元・良遠・冷泉持房らを従えて忽那島に来た。親王の忽那島に滞在すること三ケ年、義範は親王の内海統御策を援助した。この間に義範は安芸国の守護武田氏、ついで河野通盛らの来襲を退けたばかりでなく、進んで通盛の本拠湯築城を、さらに中予・東予の武家方の諸城も攻略した。
そのため武家方は圧倒され、伊予国はあたかも宮方の一大策源地の観を呈した。親王が九州に去ったのち、脇屋義助の伊予入国に際し、また熊野水軍の瀬戸内海進出の時も、義範は兵糧を送ってそれを援助している。その後も義範は長く宮方として内海に飛躍し、忽那氏の黄金時代をつくった。
南北朝合一後は、重清の子孫が河野氏の武将として活躍を続けたが、天正十三年、豊臣秀吉の四国征伐の際、
忽那島も攻略をうけて没落した。
【参考資料:国史大辞典(吉川弘文館刊)】
■参考略系図
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