葛山氏
丸に違い鷹の羽 (藤原北家伊周流) |
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葛山氏は藤原惟康の孫親家が大森に住んで大森氏となり、子惟兼が葛山に住んで葛山氏となった。
『吾妻鏡』に葛山太郎とか葛山次郎とみえ、惟兼−惟忠−惟重のころ、源頼朝の時代にあたり、御家人として駿河国駿東郡に勢力を伸ばしていった。
戦国期領主として国人領主制を展開するのは氏時のころからで、氏時は伊勢新九郎(北条早雲)の二男といわれ、維貞の養子となって葛山備中守氏時を名乗ったといわれている。
次の氏広との間に氏尭がかぞえられる場合のあるが、氏時が養子になって氏尭と名乗ったのか、子に氏尭があり氏広と続いたのかは明かではない。氏広の官途名は中務大輔で、『冷泉為和和歌集』によると、天文二年八月に駿府の葛山邸で歌会が催されており、すでに戦国大名今川氏の重臣の一人に組み込まれていたことがわかる。
氏広の子が氏元と推定され、この氏元時代に葛山氏は全盛時代を迎え、駿東郡からさらに富士七郡の一部にまで支配の範囲を広げている。また氏元の支配下の佐野郷で天文二十一年に検地が行われている。
今川氏の没落にともなって葛山氏も衰退し、永禄十二年二月から六月にかけて三通の知行宛状を出しているのを最後に、その動きはつかめなくなる。そのあとこの地は北条氏と武田氏の争奪の場となり、葛山氏は消えていくこととなる。
武田系図によれば、維康の養子として油川信貞が入ったとも、氏元の娘の一人が嫁いだとも見られる記述が残されている。
■参考略系図
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