美作三浦氏
丸に三つ引両
(桓武平氏三浦氏族)


 三浦氏は関東の豪族三浦義明の後裔と伝えられる。美作三浦氏の祖貞宗の美作入部の時期については、諸説あってよく分からない。貞宗は高田城を築き、随慶寺・化生寺を建立した。その後五代にわたり、在地豪族として勢力を築き、貞連のときに全盛期を迎える。
 長亨元年(1487)、足利義尚の江州在番衆に三浦駿河守貞連の名がみられる。文亀年中、近くの篠向城を攻略、家臣福島・金田等にこれを守らせた。この頃までに福島・金田・牧・船津等の在地土豪を家臣団に編成したものと考えられる。
 貞久の代の天文十三年出雲の尼子氏の攻略をうけた。この戦いは数年続いたが、貞久の病死を機に高田城は落城した。尼子氏が安芸の毛利氏の攻撃を受けている隙を突いて、永禄二年、貞久の旧臣牧兵庫助・金田加賀守等が高田城を奪回し、貞久の嫡男貞勝を城主とした。しかし、毛利方に属していた備中松山城主三村家親の攻撃を受け、同八年貞勝は自刃、城は落城した。
 翌九年、三村家親が暗殺されると、高田城は三浦勢に奪回され、貞勝の叔父貞盛、ついで弟貞広が城主となった。永禄十二年、毛利元就の九州出兵の機に応じて、尼子氏の遺臣山中鹿介等が兵を挙げ、貞広もこれに呼応。その結果毛利氏の攻撃を受け、落城したが、まもなく奪回。尼子氏の滅亡後、貞広は備前の浦上宗景と組み、毛利氏・宇喜多氏と対峙したが、天正四年(1576)両軍のため滅亡した。

もっと読む


■参考略系図