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森 氏
鶴 丸
(清和源氏義家流)


 森氏は清和源氏義家流を称している。すなわち、源義家の六男陸奥六郎義隆が、相模国愛甲郡森庄に拠って、森冠者と号したのに始まるという。
 しばらく頼の字を通字としていることから、美濃守護土岐氏の被官となったものであろう。たとえば、可房が1512年近江の赤田城で戦死したり、可秀が1528年に近江小谷城で戦死しているという所伝などは、美濃土岐氏と近江浅井氏との戦いによるものと思われる。
 森氏の可成以前については異説もあるが、歴史上ではっきりしてくるのは可成からで、可成ははじめ斎藤道三に仕え、道三の死後信長に仕えている。近江宇佐城を守ったが、1570年、朝倉勢に攻められ討死している。その跡は長可(長一)が継いで、天正十年の武田攻めに従い、その戦功によって、更科・埴科・高井・水内の四郡を与えられ海津城を居城とした。天正十年六月の本能寺の変においては、弟にあたる蘭丸・坊丸・力丸の三人が信長に殉じている。長可は本能寺変後、信濃を支えることができず、本領の美濃金山城に戻り、織田信孝に属した。
 しかし、その後秀吉に仕え長久手の戦で戦死した。すでに蘭丸・坊丸・力丸の三人の弟は本能寺で死んでいたので、末弟の千丸、すなわち忠政が遺領を継ぐこととなった。忠政は秀吉から羽柴姓を名乗ることを許され、信濃川中島十二万石に封ぜられた。
 関ヶ原の合戦には海津城にいて、徳川秀忠の上田攻めに従軍し、その後、美作津山十八万六千石に転封となり、津山城を築いている。

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■参考略系図