村上氏
丸に上の字(清和源氏頼信流) |
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村上氏はその出自をまったく異にするものが各地に多く散在しているが、戦国武将・村上義清を出した村上氏は清和源氏頼信流といわれている。「尊卑分脈」によれば、頼信の子に頼義・頼清・頼季・頼任らの兄弟があり、そのうち頼清の子が顕清で、信濃国に配されてはじめて村上を名乗ったという。顕清の子が為国で、以後戦国武将の義清へと続く。
その間、上杉禅秀の乱に活躍したとされる村上満清らが出たが、村上氏の系図上には異同がみられ、人名も一定しない。いずれにしても顕国(頼衝)の子が義清で、父祖依頼の信濃国埴科郡坂城の葛尾城を根拠地とし、北信濃四郡を制圧し、天文十年には武田信虎としめしあわせて小県郡の海野氏を追い、北信に勢力を振るった。
その後、信濃に進出してきた武田信玄を上田原に破ったが、ついに天文十二年居城の葛尾城を失い、越後の上杉謙信のもとに走り復領を依頼した。これがひとつの原因となり、信玄と謙信による川中島の戦いが繰り広げられることになったが、義清の願いは達せられなかった。その後、義清は謙信に属し、天正元年越後の根知城で没した。
天正十年、上杉景勝が信濃四郡を奪ったとき、義清の子・国清が父の居城葛尾城に復帰したという。
近世の越後村上藩村上氏は、その祖を義清の孫・義明とされているが、義明は丹羽長秀の家臣だった
ということなので、越後上杉氏に仕えていた村上義清との結びつきはまったく考えられない。
伊予村上氏の末流だったとみるのが妥当なようだ。
■参考略系図
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