南条氏
夕 顔
(宇多源氏佐々木氏流塩冶氏流)


 『羽衣石南条記』などによれば、塩冶高貞の子高秀は、貞治五年(1366)伯耆羽衣石に城を築き、南条伯耆守貞宗と名を改めた、とする。父高貞の死後、高秀は旧臣の妻の尼にひきとられて越前国南条郡宅良谷で育てられた。至徳二年(1385)、この地に慈眼寺を建立、天真自性を開山とした。同寺二代住職は天真自性の弟子機堂長応で、かれは貞宗の二男であった。
 南条氏に関する文書に南条系図があり、佐々木塩冶氏にはじまると伝えている。小早川家文書の高師直施行状案に「小早河中務入道道円の伯耆国富田庄内天方郷壱分地頭職」を調査し、小早河道円にもとどおり付与するという、伯耆国の実務を以来されたのは、南条又五郎であった。この文書は案文であって原文が伝えられていないが、足利尊氏の執事高師直の施行状であれば、命令を受けた南条又五郎は伯耆国にあって、守護の役割を果たしていたと推定される。
 次に、佐々木文書の文和三年(1354)付けの足利尊氏判物写にも「伯耆…神田庄南条又五郎跡」とみえる。佐々木秀綱は文和二年六月に戦死したので、その功を賞して出雲・伯耆・因幡などの地をその遺族に与えられたが、その中のひとつに南条又五郎跡があった。
 この文書にみえる南条は、羽衣石城に拠った南条氏とも推定される。南条氏は十四世紀中ごろから、東伯耆に勢力を拡大した。戦国期の大永四年(1524)、南条宗勝は尼子経久の伯耆侵入により羽衣石を追われ、因幡の山名氏のもとに身を寄せた。
 天文九年山名氏の援助を受けて羽衣石城の奪回を図るが失敗し、永禄五年(1562)毛利氏が尼子氏を攻めると、毛利氏を頼り、三十数年ぶりに羽衣石に戻った。同七年には、因幡鹿野の合戦に勝利を得、以後東伯耆の重鎮として活躍、十二年には北九州攻めにも参陣している。
 宗勝は死に臨んで、嫡子元続や小鴨氏を相続した元清らに毛利氏への忠誠を遺言し、毛利家臣で羽衣石に派遣されていた山田重直に若き元続の後見を頼んだという。しかし、織田信長との合戦が始まった同七年、元続は織田方に寝返った。
 そして元続は、織田氏の跡を継いだ豊臣秀吉政権下の大名となった。しかし、関ヶ原の役では西軍に加わり、改易され羽衣石城は廃城となった。

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■参考略系図



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家紋イメージ


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