新納氏
丸に鍵十字
(島津氏支族)


 島津四代忠宗の子時久が、日向国児湯郡新納院の地頭に補され、新納を称した。のちに著名な忠元は庶流で是久から出ている。新納本家は時久の子実久以来、志布志城に拠って、忠勝の時勢力を増大、亨禄年間、北郷忠相に攻められて敗退したという。
 新納忠元は父祐久に従い、天文七年(1538)島津貴久に謁し、以来、義久・義弘・家久に仕え、戦功により大口城に封ぜられて、菱刈氏・相良氏への備えをになった。元亀二年以来、肝付氏・伊地知氏らの連合勢力と島津氏との間で攻防が続けられたが、天正二年忠元は、両軍に降伏を勧告、肝付兼亮と伊地知重興に島津氏への盟書を呈して帰順させた。
 このため、同八年以後の肥後経略の中心となる。同九年、忠元は相良義陽の拠点水俣城を攻め、相良氏は義久に講和を求めた。翌十年、忠元は義久に肥後制覇のための派兵を求め、肥後隈本に本営を移した。同年子忠尭は、肥前深江城攻めで戦死している。
 天正十四年以来、島津氏の豊後大友氏攻撃が始まり、忠元は義弘に従って豊後に入ったが、豊臣秀吉の九州遠征軍の到着により、忠元のみ別れ、肥後八代に駐在、さらに人吉を経て大口に退いた。忠元はあくまで戦いを主張したが、義久に諭されて秀吉に謁した。
 朝鮮出兵のため、忠恒(家久)が父義弘と布陣中、文禄四年に朝鮮より国許の忠元宛てに書を送り、義久の補佐を依頼している。また慶長二年、朝鮮再役にさいして、義弘は忠元に留守の任を命じている。
 忠元は学芸にも長じ、和歌・連歌をよくしたが、朝鮮在陣中の義弘は、しばしば忠元に返歌を与えた。

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■参考略系図