大舘氏
酢漿草 (清和源氏新田氏流) |
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清和源氏新田政義の二男家氏が上野国新田郡大舘に住して大舘(おおたち・おおだち、西日本ではおおだてとも)を称したのに始まる。
その子宗氏は新田義貞の鎌倉攻めに従って、稲村ケ崎で戦死、その子氏明は左馬介となり、建武三年正月、北畠顕家に従って近江に入り、佐々木氏頼の観音寺城を陥れ、ついで、細川定禅の守る三井寺を急襲する作戦を提案して採択された。
足利尊氏の西走後、氏明は新田勢の先陣として江田行義とともに赤松則村を播磨室山に破ったが、五月二十五日には湊川の合戦に参加し、ついで後醍醐天皇の比叡山行幸に供奉している。
後醍醐天皇の吉野遷幸後伊予国守護として同国に赴き、土居・得能二氏とともに四国を経略したが、康永三年義貞の弟脇屋義助が伊予に没してのちは足利方の将細川頼春が勢を得、氏明を同国の世田城に攻め、これを陥れたので氏明はついに自害した。その子義冬は室町幕府に仕え、義冬は治部少輔に任官している。
以降、幕府の近臣として活躍している。将軍義満の親衛隊として組織された五ケ番衆の第五番衆の番頭を、大舘氏歴代が務め、一族の多くも奉公衆に所属した。申次としての活躍もみられ、尚氏は内談衆となり、将軍側近として重きをなした。
また、義冬の孫・満冬の娘で、足利義政の乳母となった今参局は、女性でありながら政界に威を振るったことで有名である。
大舘(大館)氏は武家故実にも精通し、伊勢氏と並ぶ故実家でもあった。大和・摂津・近江・丹波・阿波の大館はこの一族である。
■参考略系図
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