奥平氏
軍配団扇 (村上源氏赤松氏流/児玉党後裔?) |
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先祖は赤松則景の末流とされ、上野国甘楽郡奥平郷を領してより家号とするという。別の説によれば、武蔵七党児玉党の後裔氏行が則景の養子になったとも伝える。家紋から考えれば、後者の説がうなづけるところだ。
貞俊のとき、三河国作手に移り、郷人を従属せしめて「郷主」となり、代々七百貫文を領した、その後、東三河に勢力を伸ばしてきた今川氏に従属した。貞勝のとき家康の祖父松平清康が東三河に進出し、これにより貞勝は清康の宇利久城攻めに従った。清康横死後、三河は今川氏の領国となり、再び今川氏に属するが、義元の戦死後、今川氏から離れて家康に属した。その後の諸合戦に軍忠をつくしたが、武田信玄の攻勢にあって、他の東三河の国衆とともに武田氏に属した。
ところが天正元年、信玄が死に、勝頼は大将の器に非ずとしてひそかに家康に帰順することを家康に告げた。家康は亀姫を信昌と婚姻せしむること、本領など三千貫文の地を宛行うことを約束した。その後、奥平氏が武田氏から離反したことで、勝頼はおおいに怒り、人質にとっていた貞能の二男などを処刑した。
信昌は天正三年、家康から長篠城に封じられ、長篠の戦いではこれを死守した。その軍功は抜群であるとして、織田信長から諱の一字を与えられた。同十年に家康から本領および遠江国の地を、甲州経略のときの軍忠で遠江国榛原郡のうちを与えられた。
小牧・長久手の戦いでは、手勢千余人を率いて首二百余級の戦果をあげた。同十六年、秀吉の推挙で美作守、従五位下に叙された。
家康の関東入国後、上総甘楽郡小幡領の宮崎に住し、三万石の地を領した。関ヶ原の合戦後、美濃国加納城で十万石、子孫は封を重ねて豊前国中津城十万石を領した。ちなみに福沢輸吉の家は、奥平家の家来筋にあたる。
■参考略系図
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