大田原氏
朧 月/丸に釘抜
(武蔵七党丹党流)


 家伝では武蔵丹党の出で忠清を祖とする。忠清は南北朝時代、武蔵国阿保郷に住して大俵氏を称したという。その八代の孫康清が下野国那須に移り、のち大田原に改める。那須家に仕えて頭角を表わし、俗に那須七騎の一人に数えられ、独立した大名に近い行動をとっている。
 大田原資清はかなりの人物で、天文十一年同輩の大関増次を倒し、自分の長男高増に大関氏を継がせる。また二男の資孝を福原氏の養子とするなど、家中屈指の勢力を築いた。天文十八年の五月女坂の合戦では那須孝資に従って、宇都宮尚綱を敗死させている。
 永禄年間、あとを継いだ綱清は葦名、白河、佐竹、宇都宮氏らの那須侵入に対し、主家をたすけて防戦につつめている。天正十三年には那須資晴に従い、薄葉原で宇都宮国綱の軍を破っている。
 小田原の役では、綱清の子晴清が秀吉に見参して、所領を安堵されている。しかもこの役で主家那須氏が改易されたことから主従の立場が逆転し、晴清が那須の諸豪族を主導することとなった。関ヶ原の役には、上杉景勝のおさえとして大田原城を守り、大坂夏の陣にも参加している。江戸時代には、一万一千石の小大名として存続し、明治維新に至った。  

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■参考略系図




戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ
家紋イメージ


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