渋川氏
二つ引両
(清和源氏足利氏流)


 清和源氏足利氏の一門で、鎌倉時代、足利泰氏の子義顕が上野国群馬郡渋川に土着したことによって、渋川氏を名乗ったという。
 足利氏が将軍となった室町幕府のなかでは、足利一族として重用され、渋川義行は斯波氏経の後任として、貞治四年(1365)九州探題に補任され、九州に下向しようとしたが、南朝方の勢力が強く、義行はついに九州に入ることはできなかった。その後、九州探題として九州の経営にあたった今川貞世(了俊)が解任上洛した後任として、応永三年義行の子満頼が九州探題として下向した。
 満頼は博多に本拠を置き、九州経営につとめたが、室町幕府は渋川氏が九州に独自の分権的権力を確率することを好まず、また在地勢力である少弐氏・千葉氏・菊池氏なども反渋川氏行動を活発に行ったので、渋川氏の探題としての威令を全九州に及ぼすことができず、その権力はそれまでの九州探題と比較してきわめて弱体であった。
 このような困難な状況のなかにあって、渋川氏は大内氏・大友氏などの援助を受け、朝鮮通交.肥前国経営に努力した。
 満頼は応永二十六年ごろ探題職を子の義俊に譲ったが、義俊は同三十年に少弐満貞によって博多を追い出され、肥前国に逃れて再起を企てたが、同三十二年の肥前国での合戦に敗れ、渋川氏の勢力は急速に衰えることとなった。
 その後、渋川氏は東肥地方に一地方勢力として残存し、名目的探題職は満直・教直・尹繁と継承されたがその実権はなく、天文二年十二月肥前国綾部朝日山城を大内氏に攻められて、尹繁の子義長が戦死し滅亡した。渋川氏の子孫は、近世大名鍋島氏・大村氏の家臣として仕えたものもあった。    

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■参考略系図