宗 氏
丸に四つ目結
(桓武平氏知盛流/惟宗氏裔か)


 宗氏は惟宗姓。惟宗の「宗」をもって名字にしたという。所伝では、宗氏の祖知宗は平知盛の子で、壇の浦の戦い後、惟宗氏に養われたとし、本姓平氏であると称している。あるいは重尚を安徳天皇の落胤としたり、俗説はきわめて多いが、いずれも信ずるに足りない。結局のところは、大宰府の官人で大宰少弐、少弐氏の被官であった惟宗氏の後裔が、対馬の国造家であった対馬県直などを追って領主化しやものとみなされる。
 対馬は少弐氏の守護領国であったが、鎌倉時代、在庁官人阿比留氏が従わなかったため、宗氏に討たせている。これが重尚で、以来、宗氏を守護代としている。
 蒙古襲来のとき、三代助国は戦って討死を遂げている。室町時代のはじめ、頼茂は足利尊氏に従って軍功を挙げており、貞茂のときには応永の外寇があり、貞茂は九州探題などの応援を得て撃退に成功している。そのときに筑前守護代にも任じられている。
 その後貞盛は、朝鮮と嘉吉条約を結んで、日朝貿易を行うようになった。これは宗氏が大内氏との戦いに敗れ、それまで肥前・筑前で在地領主化していた一族が大内氏に追われて対馬に戻ったため、田地狭小な対馬では生計を貿易に求めるほかまかったからである。
 秀吉の九州征伐に当たっては秀吉に属し、本領を安堵された。文禄・慶長の役では小西行長の軍に従って釜山城の 攻撃などを行っている。関ヶ原の合戦では西軍に属したが、朝鮮との国交回復に尽力し、十万石の格式を得た。

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■参考略系図



戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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家紋イメージ


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