隅田氏
撫 子
(藤原鎌足後裔/紀州国造的豪族の裔?)


  隅田氏は石清水八幡宮隅田庄の公文職と隅田八幡宮の俗別当職をあわせもつ武士として、十二世紀初頭に登場する。その出自は藤原氏の後裔を称している。しかし、はじめ長氏を称していることから那賀.伊都両郡に古くから勢力を有した国造的な系譜をひくもののようである。
 鎌倉時代においても、隅田氏の嫡流は隅田庄の公文の地位にあったが、一族が庄内の各地に分かれたのみならず、上田氏などの他氏を包摂し、党的武士団を構成した。隅田氏はいわゆる西国御家人であって、地頭には補任されなかったが、十三世紀中葉以降、隅田庄の地頭になった北条氏の被官となり、地頭代職の地位を与えられている。
 隅田党の発展期は十三世紀後半で、宗家から葛原氏、草生氏、中島氏などがつぎつぎと分かれている。隅田党は規模のうえでは小武士団に過ぎなかったが、守護北条氏がしばしば六波羅探題を兼務したことから、奉行人として京都に出仕するようになった。鎌倉末期の元弘の乱(1331)には隅田忠長が、六波羅検断・軍奉行として、御家人を指揮するまでに出世したのであった。その結果、隅田惣領家は北条氏と運命をともにし、近江国番場で戦死している。そのとき、一族の多くもともに戦死している。
 残った隅田党は、後醍醐天皇方につき南朝に味方している。しかし、大内氏が紀伊守護になるとこれに従い、その失脚後は新守護畠山氏の支配下に入った。天正元年(1573)、畠山昭高の死後は織田信長に仕えて、信長の高野合戦に参加、さらに信長の死後は豊臣氏に属した。
 こうして、隅田氏は長いあいだ、さまざまな地方で合戦に従軍したが、その後はとくに認められることもなく、やがて故郷にかえり農業に従事した。なかには、紀伊徳川家に仕えたものもあった。

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■参考略系図