田原氏
抱き杏葉
(秀郷流大友氏庶流)


 志賀・詫摩氏と並ぶ大友三大支族の一つ。大友氏初代能直の庶子泰広が始祖。豊後国国東地方に地頭職を得、国東郡田原別府に定住して田原氏を称した。のち沓掛田原・武蔵田原を分出した。庶流には吉弘・生石・田口氏などがある。
 二代基直は、文永・弘安の役の戦功により筑前恰土庄を与えられた。元弘・建武の争乱には直貞・貞広父子が五醍醐天皇につくして、天皇の綸旨により香賀地庄を与えられたが、のちに北朝方として足利尊氏・義詮に従い、観応二年(1351)、国東郷地頭職を得ている。氏能は探題今川了俊とともに菊池武光と連戦し、北九州全域と周防に及ぶ広大な散在地を得た。
 親述は、明応年間以来、大友政親と家督を争った大聖院宗心を支持して大友氏と対立。その孫親宏は、天文十二年(1542)大内氏の要請により出雲に出兵し、その後大友義鎮の命で豊前の山田・馬岳・小倉・門司の各城を攻め、功をあげた。しかし、田原氏本家は反大友的傾向が強く、義鎮はこれを警戒して、むしろ分家の武蔵郷の親賢を重用して本家を抑圧し勢力の分裂をはかった。このため田原本家の不満は増大し、養子親貫は毛利・秋月氏の支援を得て鞍懸城に挙兵、義鎮は親貫を敗死させ、二男親家に田原本家を継がせた。
 他方、奈多氏の出で田原氏分家の養嗣子親賢は、妹が義鎮の妻であることから義鎮・義統の信頼を得て権力を振るった。天正六年(1578)、大友氏の日向遠征軍を指揮し、耳川で島津軍に大敗、妙見岳に蟄居した。その後、本家田原氏の反乱を抑え、ふたたび国政にあたったが、島津氏の大友侵攻に際し、常に義統と行動をともにした。
 朝鮮出兵後、大友氏の国除となり中川秀政の与力となり、関ヶ原の役で義統に合流、西軍に参加し黒田如水と戦い降伏した。
 田原氏のなかで著名なひとりに、田原親虎がいる。親虎は、京の公卿柳原氏に生まれ、近江守親賢に乞われて養子となった。天正五年、臼杵の教会で受洗、シマンと称す。養父母はこれを知って激怒して家から追い、親虎は府内のイエズス会住院に隠れた。のち赦されて同年十一月、日向耳川の戦に養父とともに出陣し、敵の重囲に陥り戦死した。しかし、死地を脱し豊後国を逃れて堺に赴き、のち伊予国に移り住んで生涯を終えたともいう。なお親虎を田原宗亀入道親弘の子、親貫とする説もある。

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■参考略系図