天童氏
二つ引両
(清和源氏足利氏流)


 天童氏は、斯波兼頼の子直家が次子頼直を天童に封じたのを始めとする。南北朝期、成生庄の地頭であった里見義景は、斯波家兼の子で兼頼の弟義宗を養子にしたが、その義宗にも実子がなかったため、頼直が義宗の養子となったと推定される。
 したがって、頼直は単に最上氏の庶族として天童に分封されたのではなく、里見氏の地盤を継いだものであり、また、大崎氏からも最上氏と同格に扱われることとなる。
 頼直は、永和元年(1375)成生楯から天童城に移ったとされる。かれはまたその子満長を上山、頼高を東根、頼種を鷹巣にそれぞれ分封した。
 室町期、幕府と古河公方の対立が続き、寛正元年(1460)、幕府は関東・奥羽の諸将らに命じて成氏討伐しようとした。この時、最上義春とともに天童頼基にも成氏討伐の御内書が出されている。『余目氏旧記』でも、大崎氏から最上氏と同格に扱われている。
 戦国期、山形盆地に伊達氏が侵入した際、永正十七年に天童頼長は伊達稙宗と戦い、翌年には、伊達方に協力した立石寺を焼討ちしている。また天正二年(1574)の最上の乱でも、最上義光に対する急先鋒として戦っている。
 天童氏は、天童・延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生の「最上八楯」の中心として、国人一揆を形成し、最上氏や伊達氏に対抗していた。しかし、天正十二年最上義光の攻撃により天童城は落城、天童頼久は奥州に逃れ、文録年間に伊達氏の家臣となり、準一家に列せられた。  

もっと読む


■参考略系図