宇久(五島)氏
丸に花菱
(清和源氏武田氏流/瑳峨源氏源綱流)


 その出自には源平の二説が出ている。平氏説では、平正盛次男の家盛を宇久氏の祖としている。平氏は寿永二年(1183)に西走して源頼朝に敗れさったが、家盛は肥前国宇久島にのがれ山本に住みついたとする。源氏説は、瑳峨源氏源綱の後裔とも、清和源氏武田信義の後裔ともいわれる。また武田信弘が宇久島に渡り、初代家盛と改めたというが不明。
 いずれにしても宇久氏は宇久島を基盤に発展し、今川了俊による松浦一族の一揆契諾に参加、その後五島漁主間で、漁業権等をめぐる一揆契諾をさいさい結んでいる。覚のとき、福江島岐宿に入り、その子勝は岐宿から深江に移り、辰の口城を本拠とした。
 永正四年囲は玉之浦納の反乱により殺され、子の盛定は平戸に逃れ、平戸松浦興信の助けで福江島の奈留・大浜・貞方・玉之浦氏を支配した。そのころ福江島の田尾、中通島の青方.奈摩らの諸領主層を服属させている。そして、これらの領主層を一定の職制に整備した家臣団化がみられる。すなわち、浦中五人衆、六名字、その他福江四人衆、上三頭、下三頭よりなっている。しかし、平戸松浦氏、志佐氏らの支配もあるため所領収取関係は複雑であった。
 盛定は、永正十八年(1521)には江川城を築き、以後、江川城は盛利に至るまでの居城となる。天文九年(1540)に明の王直が来航して貿易の利を説くと歓迎、通商の密約を結んで福江の一角に住まわせた。唐人町に現存する「六角井」はその遺構である。
 純定は、永禄九年(1566)にポルトガル宣教使のアルメイダやロレンソを招いて、キリスト教の教義を説かせるとともに、教会堂を寄付などしてかれらを援助している。また庶子の純堯は、大浜氏の養子となっていた。永禄十一年に入信してルイスの洗礼名をもち、室の松浦氏もマリーと称している。
 二十代純玄は、秀吉の九州征伐に参陣し、五千余石を受封して、居城を福江江川城に定めた。朝鮮出兵には水軍をもって参加、小西行長に属して先鋒となり、初めて五島氏を称した。その後ふたたび朝鮮に出動、豊臣姓を受け、慶長三年家康に会見して藩領を安堵された。
(家紋は江戸時代の大名家のものを掲載)

もっと読む



■参考略系図



戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ
家紋イメージ


人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

www.harimaya.com