浦 氏
三つ巴
(桓武平氏小早川氏流)


 浦氏は桓武平氏小早川氏の一族である。沼田小早川宣平の子氏実が浦氏を名乗った。元安に至って、嗣子がなく、同族の乃美家氏の二男賢勝を養子とした。
 賢勝の子宗勝は兵部少輔を名乗り、毛利氏の直属水軍河ノ内衆の頭領児玉就方と並ぶ毛利水軍の提督であった。古代末期から瀬戸内海で活躍した安芸沼田衆の伝統を継承する小早川水軍の司令官として毛利氏の中国制覇に多大の貢献をした。
 水軍武将として宗勝の名があらわれるのは、天文二十四年の厳島合戦でであった。宗勝は厳島合戦の前夜、折からの暴風を衝いて小早川水軍を率い、陶軍の船筏を策によって通り抜け、隆景に率いられた陸戦隊を無事上陸させることに成功した。厳島合戦に続く毛利氏防長経略で、宗勝は周防灘や関門海峡の海上封鎖に貢献した。
 弘治元年には周防玖珂郡の由宇に出陣して一揆軍を破り、弘治三年には毛利軍に追い詰められた大内義長が長府の且山城へ籠城すると、宗勝は能島・来島両村上水軍を指揮して、上関から下関に至る海上を封鎖して義長の豊後への逃亡を阻止した。つづく毛利氏の尼子攻めでは、小早川水軍を率いて赤間関から長門の北海岸線を封鎖して、豊後の大友氏と出雲の尼子氏の連絡を断ち。その輸送路を遮断した。
 永禄二年から四年におよぶ門司合戦と、永禄十一年から翌十二年に続く筑前立花城の攻防でも宗勝はその勇名を響かせている。門司合戦では、大友軍が門司城を占領すると宗勝は隆景の命を受けて門司と小倉の中間に敵前上陸を敢行して門司城を奪回し、城兵数百の首級を斬獲した。さらに永禄四年には大挙して門司城の奪回に押し寄せてきた大友軍を大里の戦いで打ち破っている。立花城の攻略では、降伏した敵将とその部下を無事に相手方の陣営へ送り届けている。そのため、このあと宗勝が立花城から撤退しなければならなくなったとき、敵将のはからいで追撃をまぬがれている。
 天正四年七月の大坂木津川口の海戦で総司令官を務めた。その後天正十年になると、中国攻めにやってきた羽柴秀吉の調略に随分と悩まされることになる。これは強大な毛利水軍を打ち破るためには、それを支える瀬戸内水軍を懐柔して味方につけねばならないと考えた秀吉が、ほかならぬ宗勝とその嫡子盛勝を標的として働きかけてきたのであった。
 当時羽柴軍の来襲に備えて備中足守に派遣されていた盛勝は、主君小早川隆景の疑惑を受け、家中騒動を起こしてしまった。これは、秀吉が隆景と宗勝父子および宗勝と盛勝の仲を離関させようとした陰謀であった。このため盛勝は謎の死をとげている。その後も柴田勝家や足利義昭から宗勝に対して誘いかけがあったところをみると、いかに宗勝が提督として高く評価されていたかが分かる。
 その後も宗勝は隆景の将として、天正十三年の四国攻め、天正十五年の九州征伐に従軍している。そして、文禄元年の朝鮮の役にも隆景に従軍して渡海した。しかし、戦場で中風を病み帰国、その年の九月に他界した。

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■参考略系図