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分部氏
丸に三つ引両
(藤原南家工藤氏流/清和源氏?)


 伊勢国安濃郡分部村を発祥地とする。その先祖については二説がある。一つは、藤原南家工藤氏流とするもので、工藤祐経の六世の孫高景が、足利尊氏に仕えて伊勢国安濃郡長野の地頭となり、その曽孫光久がはじめて分部氏を称したというもの。もう一説は、清和源氏の流れというものである。前後のことから考えて、長野工藤氏の後裔というのが自然なようだ。
 伊勢長野氏の家臣として、累代分部城に居城した。光高のときには長野藤定に仕えて活躍し、藤定が子なくして死んだときには、光高が奔走して信長の弟織田信包を後嗣としている。光高には実子がなく、細野藤光の次男を養子として迎えている。それが光嘉で、『寛政重修譜』には「天文21年伊勢国に生る。のち光高が養子となりてその女を室とす。伊勢国羽野合戦のとき十六歳にして軍功をはげまし、二箇所の疵をかうぶる」と記されている。
 のち文禄四年秀吉に属し、伊勢国の内で一万石を領した。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後加増されて二万石となっている。

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■参考略系図