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山崎氏
檜扇に四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)


 宇多源氏の庶流。佐々木源四郎大夫の子憲家が源頼朝に仕え、近江国犬上郡山崎の地頭に補せられたのに因み、山崎氏と称した。
 『竹生島奉加帳』にも山崎氏の名がみえ、大永五年(1525)、近江長沢の戦いでは、六角軍の一員として右翼の八条と後詰の箕浦にその名がみえている。
 代々、佐々木六角氏の被官であったが、天正元年(1573)片家が六角義弼に背いて織田信長の麾下に入り、同十年の本能寺の変直後は、一時的に明智光秀に属した。しかし、ほどなく秀吉にくら替えし、犬上郡山崎の地を安堵され、同年末には摂津国有馬郡三田城主となり二万三千石を領している。
 続いて小牧・長久手の戦いに出陣し、九州征伐、小田原の役と秀吉の天下統一戦争に従軍、小田原の陣では武蔵岩槻城の包囲戦に加わったことが『武家事記』にみえている。
 長男家盛は片家没直後に家督を許され三田城主となり、従五位下左馬允に叙せられている。文禄元年(1592)の秀吉の朝鮮出兵に際しては対馬の守護を任され、海峡往来の兵站をも受け持った。さらに続いて、肥前名護屋城西ノ丸の警護を命じられている。翌々年、京都に戻って伏見城の築城に携わった。
 その子定勝も秀吉馬廻りとなり、文禄の役には父に従って名護屋城に駐留、伏見城の築城も父と同様に工事を分担したので、一万石の大名に取り立てられ、伊勢国八知竹原を領し、秀吉死去にあたっては、直江の刀を拝領している。
 関ヶ原の役では、父子ともに西軍に応じ、父家盛は丹後田辺城攻め、子定勝は伊勢安濃津城攻めに加わっている。西軍敗戦で本来なら改易のところを、池田輝政との姻戚関係をもって許され、家盛は三田二万三千石を安堵された。のちに七千石の加増を受けて因幡国若狭に移封された。定勝は逃亡ののち秀頼に仕えたという。
 家盛のあと、家督は家治が継ぎ、元和三年に備中国成羽へ、寛永十五年には一万石の加増のうえ肥後天草へ、さらに同十八年には一万石の加増をうけて讃岐国丸亀へと移封を繰り返した。その後、俊家を経て治頼に至ったが、幼少のまま死去して除封となった。家名は俊家の弟で旗本の豊治に受け継がれた。

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■参考略系図