依田氏
三つ蝶
(清和源氏満快流)


 先祖は信濃国依田庄に住して、はじめて依田氏を称す。のち同国佐久郡芦田村にうつり、子孫は芦田あるいは依田を称した。信守のとき武田氏に属した。
 信守は三方ケ原の戦いで武田氏の将として、子信蕃とともに遠江二俣城を守った。信玄没後も、徳川軍の猛烈な攻撃にひるまず堅守して、天正三年同城で没した。
信蕃は父の死後も二俣城を死守し、徳川軍の将大久保忠世が周囲に砦を構えて包囲したとき城中には兵糧がなくなり、城兵も疲労していた。このとき信蕃は数百の土俵をつくって、倉庫に擬装し、戦意を高めたという。また、天正八年、徳川軍の攻撃を受けた駿河国田中城を退去のとき、家康は信蕃に服属をすすめたが、信蕃は臣たるものの義にあらずとして拒否し、本国に帰った。
信長没後、家康は甲斐・信濃両国の諸士の服属をはかった。信蕃は近辺の士三千余人を糾合し、芦田小屋を拠点として近郷を制圧した。この忠功で家康より信濃国諏訪・佐久郡の地を与えられた。また、後北条氏が芦田小屋を攻撃したが、守りが堅く撤退するといこともあった。
 信蕃は信濃国真田昌幸を家康に属せしめるなど、徳川氏の信州経略の強力な推進者であった。家康の関東入国後、嫡孫の康真が武蔵・上野のうちで三万石を与えられた。

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■参考略系図