結城氏
三つ巴
(藤原氏秀郷流)


 藤原秀郷の後裔頼行を祖とし、朝光のときに至って結城を領して以降結城氏を名乗ることになった。朝光は、治承四年の源頼朝の挙兵に従い、また翌年の志田義広の討伐に功を挙げ、頼朝から重く用いられた。
 朝光の孫広綱の時、広綱の弟祐広が陸奥白河を領して白河結城氏の祖となった。祐広の子が有名な宗広で、南北朝時代、後醍醐天皇に従い、新田義貞とともに鎌倉攻めに功を挙げ、その後も、北畠顕家に従って、霊山城に義良親王を迎えるなど、南朝方として大活躍をした。
 結城宗家は広綱の系統で、これを下総結城氏といった。白河結城氏が南朝の忠臣であったのに対して、足利尊氏の鎌倉挙兵以来、常に北朝側勢力として働いていた。そのため下総結城氏は室町時代には関東における一大勢力となり、宇都宮氏や佐竹氏・小山氏と並んで関東八家のひとつに数えられている。
 室町時代の結城氏で特筆されるのは氏朝である。彼は応永二十九年、小栗満重に加担して上杉憲実の討伐を受け、それ以後憲実と対立することになった。したがって、永亨十年、鎌倉公方足利持氏が挙兵氏永亨の乱を起こすや持氏側となって戦っている。永亨の乱そのものは翌年、持氏の自殺によって終息するが、その後、持氏の遺子春王丸.安王丸が常陸で挙兵すると、氏朝は春王丸.安王丸を結城城に招き、公然と反旗を翻すことになった。結局、上杉憲実および将義教の子千王丸らの率いる兵に城を囲まれ、嘉吉元年落城し、春王丸.安王丸の二人は美濃で斬られ、氏朝は自殺したのである。
 氏朝・持朝父子の死のよって結城氏は断絶したが、成朝に至って、持氏の子成氏が鎌倉公方になるに及んで家督を許され再興した。成朝は氏朝の四男ともいわれる。
 その後政勝の代に戦国大名としてのピークを迎えた。政勝は弘治二年、分国法である「結城家法度」を制定、 小田氏と戦ってこれを破り勢力圏を拡大している。しかし、政勝死後、長男明朝が継いだがわずか一日で 死んだといわれ、政勝の甥晴朝が継いだ。ところが晴朝にも子がなく、徳川家康が子秀康を養子として家を継がせた。 家康としても、関東の名門結城氏の名を滅ぼさせたくなかったのだろう。

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■参考略系図




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由来ロゴ
家紋イメージ


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