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天皇が神宮・神社に行幸して直接参拝し幣帛を奉るということもあったが、歴史的にみて天皇は国事に携わるため、随時出幸することは容易でなかった。そこで、天皇の使、すなわと勅使を派遣して奉幣せしめるのが古来の例で、これを奉幣使といった。
奉幣使の差遣には、まず祭祀官の掌供が神祇官に赴いて幣帛を包み、これを天皇の閲覧に供したのち、勅使がそれを受けて参向した。また、奉幣使には宣命使が随行し、奉幣ののち宣命使が天皇の宣命を奏上したのである。
ところで、幣帛とはミテグラともいい、古来より神祇に奉るものを総称した。幣帛の種類も多岐にわたり、布帛・衣服・玉・兵器・農耕具・幣串・楽器などが奉られた。現在では普通、布帛類を幣帛とし、綿・絹・曝布・木綿・麻などが奉られている。
さて、勅使には五位以上のものが選ばれ、平安時代には神祇伯を世襲した王氏(白川家)が伊勢神宮へ、和気氏が宇佐神宮へ差遣される例であった。奉幣使の語はもとは天皇の使に限られたが、中世以降は皇后・上皇以下の皇族・堂上公家から奉幣する使に対しても用いるようになった。
奉幣使のうち、毎年の恒例として派遣されるものを特に例幣使といい、これは伊勢神宮の神嘗祭にあたって奉幣せしめたのである。例幣使のことは、養老五年(721)に始まったが、それが例幣使と称されるようになったのは十二世紀に入ってからであった。
例幣使には、前記のように王氏・和気氏のほか、中臣・忌部・卜部各氏のものを副従せしめたので、四姓使とも呼ばれた。例幣使は戦国時代に一旦中絶したが、正徳四年(1714)に再興された。この伊勢例幣使と並んで、同年から始まり、幕末までの近世を通じて例幣使の名を独占したのはむしろ日光例幣使であった。
日光例幣使は、東照宮に対して奉幣する勅使で、東照宮の例祭にあたる旧暦四月十六日に向けて派遣された。幕府の権威が、その祖廟に対して勅使差遣を促したのである。
・奉幣使を彷彿させる、葵祭における勅使参神の光景
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