家紋 春日大社

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中臣氏


 春日大社は、奈良朝の神護景雲二年(768)鹿島の武甕槌神を奈良の御蓋山に迎え、次いで香取の経津主命、枚岡の天児屋根命と比売神を併せて、同年十一月九日、麓の現在地に南面する四所の神殿を造営したのにはじまる。と、同社に伝わる『古社記(鎌倉初期に成立)』に記されている。
 近年の境内発掘で、現社頭を取り巻く奈良朝初期の築地跡や祭祀遺物などが発見されて、768年以前に春日社の存在を示唆するいくつかの文献史料が裏付けられ、その創立が社伝以前に遡る可能性が強調されている。  これらのことから、草創は平城宮の守護神として鎮祭されたのが、長岡遷都前後から、その創祀に係わってきた藤原氏の氏神的性格がしだいに顕現されてくる過程が想定される。
 それは、平安ごく初期には官祭となていた『春日祭』が、三勅祭(加茂・石清水・春日)のなかでも氏神祭の典型といわれることからも理解されるが、この氏神信仰は藤原氏が最も栄えた摂関制の十一、二世紀代その頂点に達する。行幸啓や春日詣とそれに伴う神宝の奉献、社領荘園の増大、社頭の整備、そして長承四年(1135)には若宮の創建と、例祭の『おん祭』がその翌年から始まり、信仰層は貴族からしだいに武士、庶民へと広がっていった。
 中世に入ると、特に足利将軍や大和の地侍、さらには豊臣秀吉・秀長兄弟らの崇敬により、造営や年中の祭事、芸能等は動乱の世上もかろうじて護持され、その後の徳川幕府は春日興福寺領二万一千余石の他、造替のつど二万石を寄進してこれを篤く保護した。
 春日大社の神主は中臣氏で、鹿島の神が御蓋山に迎えられたとき、お供をしてきた中臣時風・秀行の子孫という。兄弟は鹿島からの長い旅路の途中、名張の薦生山に御休みの際、神様からいただいた焼栗を植えて芽が出たという芽出たい故事によって、殖栗連という称号を賜った。
 そして、奈良の御蓋山に無事鎮座された神様に、二人は自分たちの住む所を伺ったところ、この榊の枝の落ちた所に住むがよい、と投げられた榊の落ちた場所は、近世の「添上郡辰市郷」で、春日社からは約五キロの所であった。平安末期の社家の日記には「市預」とか、「三橋預」「椎木預」などの文字が見える。これは名字の生まれる以前の時代、春日の預職が管理していた各神領(荘園)の地名を冠して呼ばれていたもので『市預」とは辰市に住む預、という意味であった。したがってこの時代は、平素は神領の在地荘官を兼ね、お祭などの日には春日の神前へ参勤していたものと考えられる。
 中世に入り、社務も多忙になってくると、職住近接の必要から、神社の近くに移住するようになった。中臣姓の社家は、現在の奈良県市域の東南部、春日社へは北約五百メートルの「高畑」一帯に引っ越してきた。こうして社家町が始まると、苗字が必要となった。そして、屋敷の位置や方位に因んだ、南・新・辰巳・上・大東・大西・今西などの苗字が生まれた。
【房付き下り藤】




■社家中臣氏初期参考系図



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]