家紋 丹生都比売神社

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天野祝氏


 丹生というのは、白粉や染料の原料となる水銀または鉛のことで、また、水銀を含む赤土のことを言う。水銀の産地に丹生の地名が多いことはいうまでもない。
 紀伊国の丹生都比売神社は、祭神は丹生都比売神で『延喜式』の神名帳に「伊都郡 丹生都比売神社」とあり、名神大社で、月次・新嘗の奉幣に預かっている。この神社は、もともとは丹生の発掘に関わった氏族の氏神であったと推察される。さらに、この神社は元々丹生川の水源地の筒香にあったものが、吉野の丹生川上水分峯、大和の十市・巨勢・宇智、紀伊の伊都郡・那賀郡の各地を経て、現社地の天野原に鎮まったと伝えられている。天野原は貴志川の水源地の一つである。このことから、水分(みくまり)の神とも言われ、水を与え、水の配分を司った神社であったとも考えられる。
 『日本書紀』にみえる神武東遷の際、部隊は紀伊の名草戸畔を討ってから紀伊水道を南下したことになっているが、 地元では紀ノ川をさかのぼり、吉野川の下流に出たのではないかと伝えられている。 そして、丹敷戸畔を討つとあるが、これを「にしき」と読むのか「にふ」と見るかで、 丹敷戸畔を奉ずる人々の生産物が錦か水銀かとなる。水銀で磨いた銅鏡の輝きは見事なほど美しく、 日の神の後裔を新たに名乗るにはうってつけの材料であったことはいうまでもない。また、赤土からは鉄もとれる。 さすれば、神武が入手すべき戦略物質は「水銀」「鉄」であっただろう。すなわち、丹生都比売命の所有する金属がねらわれたのである。
 神武に討たれた丹敷戸畔とは丹生戸畔のことであり、祭神の丹生都比売神をこの丹敷戸畔を祀ったものとする説がある。またこの伊都郡には丹生神社が53社あると言われている。水銀の採掘にかかわった丹生氏の勢力、丹敷戸畔の存在が大きいものであった事を示している。
 祭神の丹生都比売神は、天照大神の妹または子という稚日女神とされ、天野明神と称された。また四殿舎(四宮)に分かれていたので、丹生四所大明神とも称された。稚日女命が天照大神の妹とされたのは、大和王権とのつながりができた際に生じた伝承であろうと思われる。
 ところで、社伝によれば、応神天皇が親から丹生大神を祭ったという。はじめ記ノ川の支流丹生川の水源地富貴郷に鎮座し、真言宗の祖である空海が高野山を開くにあたって、丹生都比売神社を地主神となし、現社地に遷したと伝えられる。高野山では丹生都比売神社を丹生(たんじょう)神という。
 神職は天野祝で、紀伊国造と並ぶ名族であった。系譜をみると、神皇産麗神の子で初代紀伊国造となった天道根命が祖とある。すなわち、紀伊国造家とは先祖を同じくする同族でもあったことになる。代を重ねて紀直豊布流が十代国造となり、その子孫は紀伊国一宮日前国懸神社の神職として連綿と相次いで現代に至っている。
 一方、豊布流の弟に神奴君子小牟久が見え、初めて丹生都比売大神を祀ったと記されている。以後、代を重ねて丹生麿に至って大丹生直の姓を賜り、丹生都比売大神に奉仕し、家武に至って天野祝を称した。ところで、一族に丹生祝氏がみえ、こちらは稲村のときに大和国吉野郡に鎮座する丹生川上神社に奉斎した。天智三年麻布良が丹生祝の姓を賜り、かれの子孫が代々丹生川上神社の神職を務めている。
 丹生都比売神社が奉斎する四宮のうち、一宮が丹生都比売神、二宮が高野御子で天野祝の遠祖神、三宮が気比大神、四宮が厳島大神とされ、他に八幡宮が祀られている。
【三つ巴】


■社家天野祝氏 参考系図





[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]