河内国-四条畷神社




四条畷の戦いに戦死した小楠公と一族郎党を祀る、建武中興十五社の一。


四条畷神社
 
●大鳥居 ●清清しい参道 ●拝殿へ ●神紋の菊水があちこちに

 
●正行の母を祭る御妣神社 ●拝殿を見る ●楠公の供養塔 ●後方山上に残る飯盛山城址への道標 ●小楠公の墓所
建武元年(1334)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して建武の新政をなした。しかし、時代錯誤ともえいるその施策は、 政権樹立に尽くした武士の失望を招き、足利尊氏の謀反をきっかけに新政は崩壊した。以後、半世紀にわたる 南北朝の動乱時代が続いた。その間、後醍醐天皇に尽くした南朝方の皇族・武将が、明治維新ののち各地に 官幣社として祀られた。その数は、後醍醐天皇を祀る吉野神宮をはじめとして全国に十五社あり、 総称して建武中興十五社という。楠木正行の父正成を祀ったのが神戸の湊川神社で、そちらも建武中興十五社の一である。
父正成が湊川の戦いで戦死したとき少年だった正行は、成長すると南朝方の有力武将として劣勢の南朝勢力の回復に 努めた。正平二年九月、藤井寺で細川顕氏の軍を破り、十一月には住吉で山名時氏の軍を破り武家方を脅かす存在 となった。翌三年、尊氏は北上する楠木軍に対し、戦上手で知られる高師直を大将とする大軍を発した。両軍は河内国 四条畷で激突、数に劣る楠木軍の惨敗となり正行は弟の正時と刺し違えて自決した。、


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