越前国-気比神宮




飛鳥時代に創建されたという古社、南北朝時代・戦国時代は荒々しい歴史を有した。


気比神宮
 
●大鳥居 ●二の鳥居と旗上松 ●拝殿を見る ●朝の祭祀へと向かう神職の方々 ●本宮を拝す

 
●社殿の神紋(左:五七桐 右:三つ巴) ●聖地−土公 ●敦賀の語源となった角鹿神社(参道と社殿) ●猿田彦神社

 
●神明社 ●九社の宮 ●神水苑 ●亀の池の黄菖蒲 ●大鳥居を見上げる
 
気比神宮は、伝によれば飛鳥時代末期の大宝二年(702)年に建立されたという由緒を有し、北陸道の総鎮守、 越前一宮として崇められる古社である。祭神の伊奢沙別命(いささわけのみこと)は笥飯大神、御食津大神とも 称されて、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地に降臨されたと伝承されている。古来、航海安全と 水産漁業の隆昌、産業発展と衣食住の平穏に霊験あらたかな神として信仰を集めている。 境内にある角鹿神社は敦賀の地名発祥の神社で、新羅の王子・天日槍を伊奢沙別命として祀ったものという。
南北朝時代の延元元年(1336)、後醍醐天皇に三方した大宮司氏治は、金ヶ崎城に拠って足利軍に抗戦、 敗れて一門とともに討死した。その後、勢力を回復して、最盛時は二十四万石の所領を有した。戦国時代、 ときの宮司憲直らは、朝倉氏に味方して織田信長の越前攻めに対して、天筒山城に拠って抵抗したが、またも敗れて 社殿は灰塵に帰し、社領は没収されて社僧は離散、祭祀は廃絶した。慶長十九年(1614)、福井藩祖結城秀康公が 社殿を造営、併せて社家八家を復興し社領百石を寄進した。かくして、気比神宮はふたたび祭祀を復活することが できたのであった。
高さ十一メートルの大鳥居は、大和の春日大社・安芸の厳島神社と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つで、 戦前には国宝の指定を受けていた。惜しくも福井空襲で焼亡、のちに再建されて重要文化財指定を受けている。


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