和泉国-岸城神社




豪快なダンジリ祭で、あまりにも有名な神社


岸城神社
 
石灯籠の神紋 ・ 境内へ ・ 社務所 ・ 拝殿に据えられた神紋 ・ 真新しい社殿

 
神馬に木瓜紋 ・ 岸和田戎神社 ・ 戎神社の柏紋 ・ 稲荷神社 ・ 稲荷神社本殿

 
摂社 : 左から住吉・琴平・春日・菅原・日吉・愛宕・厳島の各社 ・ 幕に描かれた木瓜紋 ・ 扉に据えれた橘紋
・ 岸和田城址 : 左) 見事な堀に映える復興天守 / 右) 天守閣を見上げる
 

岸城神社は天照皇大神、素盞嗚尊、品陀別命の三柱を御祭神とし、創建年代は不詳ながら往古より かつての和泉国南郡岸和田村のうち現在の宮本町・上町・五軒屋町の産土神として祀られてきた。 桃山時代、豊臣秀吉より岸和田三万石を与えられた小出秀政が、岸和田城内に社殿を築造した。 江戸時代はじめの元和五年(1619)に岸和田城主となった松平康重が、 寛永年間(1624〜43)に新たな社殿を建立し、春日大明神・愛宕大権現・天満天神の三社を勧請した。 その後、岡部宣勝が六万石で岸和田城主となった。万治四年(1661)、宣勝は廃壊していた社殿を修復、 彫物などで美しく飾り立てて再建した。以後、岡部氏代々の崇敬が厚く、氏子も宮座を組み祭祀を務めた。
明治の初め、「御宮」の名称で親しまれていた牛頭天王社と八幡社を合祀して「岸城」神社と改称、 岸和田城内の「神明門」附近にあった「神明社(神照太小社)」の社殿を現境内に移した。 岸城神社の神紋の「木瓜と橘」は、木瓜が「牛頭天王社」に、橘が「八幡社」に由来するものである。 明治六年(1872)郷社に列し、明治二十九年(1896)には旧藩民・氏子の奉賛により現在の境内が整備された。 ついで明治4四十年(1907)には神餞幣帛料供進社に指定され、 大正四年(1915)大工町にあった「蛭子神社(岸和田戎神社)」、大北町にあった「琴平社」を合祀 して、現在の二十ヶ町を氏地とする産土神社となった。

だんじり祭

古くは獅子舞や相撲、俄芸などが行なわれていたが、大坂の祭礼の影響を受け、次第に現在のような 地車曳行を中心とした祭礼へと変化していった。 岸城神社は村のお宮が城主の信仰するお宮となった歴史があり、「地車祭」も一時期城入りがメインと なっていたが、明治維新後の廃藩によって元岸和田村の産土神に戻され、 宮本町・上町・五軒屋町に加えて、新たに町と浜が氏子となり現在のような「だんじり祭」となった。 だんじり祭は岸城神社の最も重要な大祭であり、平成18年より「敬老の日」前日前々日の土・日曜日に 開催されている。
[神社パンフレット  岸城神社 公式 HP など]

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