粟田神社は、旧山城国粟田口村の産土神で、京の七口の一つである粟田口にある。
江戸時代までは感神院新宮あるいは牛頭天王を祀ることから粟田天王社または
粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素戔鳴尊ほかを祭神とする。社伝によれば、
貞観十八年(876)に従五位上出羽守
藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後
天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(111318)に再建するが、応仁の乱で焼失し、
明応九年(1500)に吉田兼倶が再建したという。
粟田口附近は奈良時代以前から開けたところで、粟田氏が本拠とし、粟田郷とよばれていた。
平安京ができると、東国との交通の要地にあたり、やがて
粟田口とよばれて京の七口の一つに数えられた。京から奥州下向した義経は、
粟田神社に参拝して旅の安全と源氏の再興を祈願をしたと伝えられている。
中世には、馬借や車借が粟田口を通って物資を運び、江戸時代には東海道五十三次の終点も
間近にあり、人と物資の往来でおおいに賑わった。また、平安末期以来、粟田郷には刀鍛冶が住み、
三条小鍛冶宗近や粟田口吉光らの名工が日本刀の名作を多数残している。江戸時代から明治にかけては
粟田焼とよばれる陶器の産地であった。
[参考 : 境内案内板の由来書 ・ 名所旧跡めぐり
粟田神社HP ほか]
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