社伝によると、延喜元年(907)に菅原道真が大宰府に左遷されたとき、道真は八男慶能の養育を
園部代官式部源蔵に託された。式部源蔵は、小向山の邸宅内に道真の木造を刻んで生詞を建て、
道真の一日も早い帰洛を願った。これが生身天満宮の始まりで、
道真生存中に建てられたことから「生身(いきみ)」天満宮と呼ばれた。
祭神菅原道真は政敵藤原氏の陰謀で失脚、左遷の地大宰府で生涯を終えた。死後、
都では天変地異が起こり、疫病が流行して藤原氏一門が病死、さらに日照りが続くなどした。
人々は道真が怨霊となって祟っている結果だとして、神として祀り北野天満宮が創祀されたのである。
その後、火雷天神という地主神と合体して「天神」さんと呼ばれるようになり、やがて、
学問能筆の神として崇められるようになった。ところで、生身天満宮を創祀した武部源蔵は歌舞伎・文楽の
三大名作に数えられる「菅原伝授手習鑑」の登場人物として名高く、
天満宮の回廊はその手習鑑の遺業の建物と伝えられている。
伝にあるように、生身天満宮はもともと小向山山麓に鎮座していたが、江戸時代はじめの承応二年(1653)、
園部藩主小出吉親の園部城築城に際して、現在の天神山山麓に遷座された。
境内には杉の巨木がそびえ、桃山技法の蟇股など格調の高い本殿を始め、この辺ではまれな能舞台、
春嶺作三十六歌仙のある拝殿や貴重な奉納額のある絵馬堂、承和十二年(845)竹生島天女の像を迎え、
十倉左江門建立による弁財天社、武部源蔵の墓や社なども祀られている。
[神社しおり など]
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