|
正面の鳥居 ・ 本殿へ ・ 拝殿と本殿 ・ 拝殿に据えられた神紋 ・ 馬鳴神社(蚕の宮)と兼朝神社 |
ドヤ顔の狛犬 ・ 本殿西方の摂社群 ・ 摂社猿太彦神社の雁紋 ・ 境内から田畑を見る ・ 社務所つくばいの二つ引両紋 |
社伝によれば、人皇十四代仲哀天皇の創建された神社で、天皇が中国地方の穴門へ行幸の前年にこの地方の村民が流行病で難渋しているのをご心配になられ 武内宿禰をお供としてお見舞いになり、この社に参拝され「病気平癒」を祈願され、お宮の名前を高座と名付けられたという。仲哀天皇とあわせて武甕槌之命・経津主命・天兒屋根之命・大日靈尊(天照大神)を祀り、高座五座・高座五社明神と称される。かつては高座谷に鎮座していたが、寛文十年(1670)現在地へ遷座された。延喜年中(901年〜923)延喜式内社に列せられ、弘仁四年(813)嵯峨天皇より勅額を賜った。 しかし、弘化三年(1846)に別当観蓮の失火により古記・宝剣・勅額等は惜しくも焼失してしまった。 高座神社は別名を蟻の宮と称えている。ある旱魃の年、村民多数高座神社に参拝し七昼夜、雨乞いの祈願をなしたところ、 七日目の夕方、村人の一人が大きな蟻が社殿から這い出て列を作っているのを発見した。蟻の列をたどっていくと蟻が窪みの所で消えていなくった。蟻が消えた窪みを掘り返してみると、清水がコンコンと湧き出してきた。驚き喜んだ村民は溝を通し田に水を送り、枯れかけた稲は青く蘇えり「蟻の宮」と称するようになったという。 また、本殿の東方に祀られる馬鳴神社は蚕の宮と称される。伝によれば、豊かな生活を求め当社に参拝していた村人に、養蚕を始めよ。守護する神は保食神なり」と夢のお告げがあった。早速、村の代表が信州上田から蚕の種を持ち帰り、広く養蚕を営むようになった。かくして青垣では蚕を飼うようになり、但馬や丹後まで養蚕技術を広めるほどに繁栄した。その後、化学繊維の発達で養蚕業は衰退したが、いまも五穀豊穣、諸業繁栄、延命長寿、 無病息災の社として崇敬を集めている。 このように村人たちが暮らしに悩み苦しい時、神社に参拝し祈りを捧げた証が盃状穴として残っている。むかしの人々が手水鉢や灯篭の台石や階段の踏石等に「ノミ」で穴をあけ、「願」を 掛けて祈った名残だという。また、その穴に油を注いで灯明を燃やして祈ったあとともいわれる。 [神社パンフレット 高座神社 公式 HP など] |